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2012年 01月 10日
先日、久しぶりに映画館で映画を観た。
A dangerous method というこの作品、心理分析のユング、その師だった(でも途中から訣別した)フロイト、そしてフロイトのもとからユングに送られてきた美人ロシア人患者サビーナの三人を主役にしたお話だが、かなり事実に忠実につくられているものらしい。 精神分析という分野のパイオニアであり重鎮であるフロイト。その彼を師と仰ぎつつも、途中から理論上の訣別を果たし、独自の世界観、人間観を築いていったユング。そして、そのユングに、最初は患者として出会い、後に彼の愛人になるも、結局は捨てられ、自らも精神分析家となったサビーナ。それぞれに味のある役者(サビーナ役のキーラ・ナイトレイはシャネルのCMキャラクターとしても有名)を配し、緊張感がず〜っと続いたまま、一気に結末へとひっぱっていく、なかなかに見応えのある映画だった。 それにしても、ユングというのは不思議な人だ。スイスのチューリッヒで、最初は病院勤務の精神科医としてキャリアをスタート(映画の物語もこの時代からはじまる)。ものすごいお金持ちの女性、エンマと結婚し、彼女の財産で生涯、物質的には何一つ苦労することなく、いや、苦労どころかとても快適で恵まれた暮らしを営む。やはり彼女の財力のお陰で研究に没頭することもできたし、プライベートのクリニックをオープンすることもできた・・・とその点は、偶然か謀(はかりごと)かはわからないけれど、なかなか「うまくやった」という印象をどうしても受ける。 箱庭療法とか、夢分析などで知られ、そして文化や民俗の違いを超えて、人間にはなにか共通する根源的な無意識(集合的無意識)というものが存在すると考えたユング。彼の名前と評判は、私が理解している限りでは、アメリカと日本でかなりポジティブなリアクションを得ているのに対し、地元スイスをはじめとするヨーロッパではなぜか今ひとつ。そのたぶんにミスティシズム的な傾向が、明晰や科学的であることを是とするヨーロッパ的(とりわけフランス的)なものと相性が悪かった、というのが、これまた私の素人理解。かくいう私自身も、ユング的な説明を聞いたり読んだりしていると、人間の心をとても豊かで創造的なものととらえている部分はなるほど魅力的なのだけれど、逆にどこか禅問答的というか、曖昧で神秘的な部分が出てくると、思わず身構えてしまって、とりあえず判断保留にしておこうかな、という気分にどうしてもなってしまう。 映画中に描かれるユングは、いったんはサビーナの魅力の虜になって、彼女との愛と性に「自分を解放する」方向に行きかけるのだが、結局はそこに世俗的なブレーキがかかって、最終的には彼女を「捨てる」ことになる。スイスのプロテスタント的ブルジョワをまるで絵に描いたような風貌と、価値観。そして、はちゃめちゃな自由人、奔放に溺れる「堕落人間」というところにいってしまわないように、それはそれはきっちりと境界線を引く、「分別そのもの」の常識人。あ〜なんてスイス的な人なの、と、それは肯定的、否定的双方の意味でそうなのだけれど、そのあまりにカリカチュア的な描かれ方は、とても分かりやすい反面、ほんとにそれだけだったのかな、と疑問に思ったりもする。(ちなみにフロイトとサビーナは共にユダヤ系。精神分析という領域におけるユダヤ人の存在感にあらためて思いを馳せると共に、そんな中にあって、逆にユングのプロテスタント(キリスト教)的なるものが浮き彫りになってくるという印象も個人的にはけっこう強かった。神秘的な方向に屈託なく走っちゃえるところも、とどのつまり、キリスト教的メインストリームの側に属している人間ならではの特権だった、と穿った見方もできそうだし〜と、結局はどっちが「異端」どっちが「マイノリティ」、どっちが「エスタブリッシュメント」というような話になるのだが。) もちろんユングとて、サビーナを捨てるにあたっては、それなりの苦悩もあり、いや、そもそも最初にサビーナの側へ思い切って行っちゃうまでの逡巡、怯えは相当なもので、そういうところは非常に人間らしいというか、極端に走ることがそもそも不得意な人間ならではの、実直で正直な苦悩というものが感じられて、その部分はなかなか好感がもてる。(逆にフロイトのほうは、全編をとおして、トータルにチャーミングな人物として描かれている。脚本や演出だけでなく、役者の魅力せいもあるかもしれないけれど) チューリッヒは、そんなユングの出身地、彼が生き、研究し、治療をし、家族を築き、不倫もした(サビーヌだけではない)土地ということもあって、ここに住んでいると、なるほどユングはかなり身近な存在だ。もともとのユング研究所が内紛だかなにかで二つに分裂し、現在はユング派分析学を教えたり研究したりする施設は市内に二つあるのだが、こちらに留学してくる日本人留学生は、のべにすると相当な数になると思う。そしてその背景として、河合隼雄氏の日本でのユング紹介という功績の力がものすごく大きく働いていることは間違いないだろう。 ユングの功績と、その限界、あるいは弱点。ただ彼をやみくもに無批判に神格化する方向ではなく、酸いも甘いもすべてひっくるめた形で、彼を理解してみたいものだ、という野望をかなり前から漠然といだきつつも、その山の巨大さの前にひるみつづけ、あくまで第二ソース、第三ソースに頼る仕方で(たとえばそれは河合隼雄氏をはじめとする「紹介者」「解説者」の言葉を通して、あるいはユング心理学を勉強した友だちとのおしゃべりの断片を聞きかじる中から)これまで接してきたユング。きっとこの先も、その巨大な山に自分で登ろうという気にはなれないだろうな、と思うけど、チューリッヒの湖を眺めているようなとき、ああ、彼も同じ景色を見ていたんだな、というような具体的なイメージがわいてきて、ほんの少しだけ親近感を抱くことはできる。そして今回の映画のような刺激を時に受けつつ、ユングは私にとって「ちょっと近い人、でもよくわからない人」であり続けるんだろうな、と思う。 2012年 01月 09日
子どものとき、親によくいわれたものだった。
「あんたは器用貧乏だから、そのまんまじゃ大成しないよ」 確かに、どっちかっていうとなんでも器用にささっと出来ちゃうタイプの子どもだったかもしれない。特にピアノは、ほとんど練習しなくても初見でけっこういけるので、大胆不敵にも、一週間、楽譜をカバンから一度も出さずして次のレッスンに臨み、さすがにちゃんとした曲のほうはさぼりが完全にばれるものの、練習曲(ハノンとかチェルニーとか、そういうもの)は、どれどれ、とぶっつけ本番で弾いて「じゃあ、来週は次のやってきてください」といわれることもしょっちゅう。少々罪の意識はあったものの、「ラッキー」という思いの方が圧倒的にまさっていて、なんだかそれでごまかし続けてきたようなところがある。 暗譜も簡単に出来たし、聴音なんかもなんだか簡単で、聞いた曲を楽器でそのまま再現できない人のことを「音痴だなあ」などと、これまた不遜なことを思ったりしていたものだった。ことはピアノに限らず、一事が万事、やや「ことを甘く見る」傾向をだらだらと引きずりながら、いつの間にか大人の年齢になっていた。唯一の例外といえば大学受験で、高2までの低迷した成績からの奇跡的挽回を果たすため、それはもう「二度とあり得ない」ほどたくさん勉強し、なかなかうまくいかなくて辛かったり苦しかったりしたことくらいだろうか。 親の予言は見事に的中し、どの分野においても私は大成するどころか、低空飛行で早や何十年。いつしか、「そのうちきっと」などという思いも消え、正真正銘のその日暮らしの人になってしまった。 そしてそんなその日暮らしの中で何十年ぶりかで再開したピアノのお稽古。そこで実は私は愕然としているのである。 器用貧乏? 器用? なんですか、それ??? 子どものころ「簡単」と思っていたのは、あれは単なる幻想だったのか。あるいは、曲自体があまりに簡単だったので、たいして練習せずともなんとかなっていただけだったのか。 譜読みの段階で弾きづらいところが山ほどある。それはまあ当然なので仕方がない。で、そこを集中的に練習する(ここが子ども時代と大いに異なるところ)。たとえば一つのパッセージを、20回とか30回くらい練習するとする。最後のほうには、さすがにだんだん弾けるようになってくる。よっし、このへんでオッケーとするか、と、次の弾きづらいところにとりかかる。そんなことを繰り返し、その日は時間切れになる。翌日、または翌々日(翌日に時間が全然取れないときなど、間に数日空いてしまうこともある)、前回、だいたい弾けるようになったところに「さてもう一度」と挑戦する。と、非情に失望することに、あらやだ、完全に振り出しに戻っていたりするのである。 えっ、きのうのあの練習の成果は一体どこへ??? ひょっとして脳細胞のどこかには、わずかながらの変化が刻み込まれているのかもしれないけれど、少なくとも表面上は「相変わらず、全然、弾けないじゃん」という状態で、それはもうがっくりくるのなんの。 先生は「1000回くらい、いや1万回くらい練習したら、きっと完全に自分のものになりますよ」とおっしゃるが、さて、その「1000回」というのは、白髪三千丈的な数字なのか、それともliterally soなのか。いずれにしても、私には1000回も練習する根性も根気もなければ、時間もない。だから一週間たっても二週間たっても、相変わらず、弾けないところだらけで、それはもう地団駄踏む思いなのだ。 年のせいだろうか(あるだろう、それはもちろん)。 自分の実力と曲の難易度がかけ離れているせいだろうか(それも、やっぱりあるだろう)。 いずれにせよ、なかなか辛い状況で、なんだか子どもみたいにふてくされたり、すねたりしたくなってくる。 ふと思い出した。子ども、といえば、器用貧乏といわれていた幼少時、それでもたまに、そんなに簡単には弾けない箇所というものはもちろんあった。そんなときの私はたちまち忍耐切れでかんしゃくを起こし「これはもう絶対に永遠に出来ない。不可能」と親に当たり散らしたりしていた(記憶がかすかに、けれどはっきりとある)。そんなとき、クールな母は、 「前回もそうやってかんしゃく起こしてたけど、そのうち出来るようになったじゃない。だからきっと今回も弾けるようになるわよ」 「いや、今回こそは絶対無理。無理ったら無理」 私の対極、「不器用な努力家」である妹は、幼稚園の器楽合奏で太鼓の役をもらったはいいけど、「た、たーん、た」というシンコペーション系リズムがどうしてもできない。私がつきっきりで、「だから、た、たーん、たって、ほら、こうやって」 と手を一緒にもってやったり、手拍子してやったり、足踏みでみせたり、一生懸命教えるのだけど、彼女、本当にできないのである。そのうち、こっちがいやんなってきて、「もう、なんでこんな簡単なのできないの」と、匙を投げたわけだが、そのあとも妹は何度も何度も「た、たーん、た」「た、たーん、た」と文句一ついわずに、でも目に涙など浮かべながら、もくもくと練習する。そして、三日経ち、一週間たち、10日たって、とうとう彼女は「た、たーん、た」をマスターした。涙をいっぱい流しながら、けれど、決してあきらめることなく、人の何倍も時間をかけて、とうとう彼女はマスターしたのだ。 「す、す、すごい」 子どもながらに、私は妹の示したこういう静かなたゆまぬ努力というものの輝きに端的に感銘を受けたものだった。 あ〜それにしても、器用貧乏から「器用」がなくなっちゃって、そして「1000回練習する根性」ははなからないとなれば、それはもう絶望的な状況である。 母の予言はどこまでも正しくて、ピアノを前にした私を非情に打ちのめすのだ。 2012年 01月 03日
大晦日の夜、息子がどこからかダウンロードしてきた書き込み式の英語版「元旦の計ーnew year's resolution」に二人でそれぞれ、書き込みをした。
元旦の計といっても、なんだかややこしいつくりになっていて、 「今年、自分にとってもっとも意味のある出来事を5つ書きなさい」 とか 「今年、自分が成長した点、学んだことを重要な順に5つ書きなさい」 といったような今年の反省、自省的内容が二枚半、次いで 「新年、絶対やめたいと思うことを3つ書きなさい」 とか 「新年にぜひ、成し遂げたいことを3つ書きなさい」 といったような、新年の豊富的内容が二枚半。 つまり計5枚にわたる、ちょっとしたレポート書きの作業に二人で黙々と取り組んだというわけ。これが案外難しく、今流行りのコーチングのもとで自己啓発とか自分探し、みたいな課題をやるのも、たとえばこんな感じなんだろうか、と想像してみた。 ハウツーものとか、コーチとか、そういう類のものには本能的に回れ右をしがちな私が、いや、でもたまにはこういうのもいいか、と案外素直にこの作業に取り組んだこと自体、実は、レポート中にもあった「今年、自分が学んだと思うこと」のひとつに数えてもいいかもしれない。そのことを to be open to appreciate insights and ideas offered by others including my children みたいな文章で表現したのだが、要するに、年下だろうが、異分野だろうが、食わず嫌いの領域であろうが、外からやってくる、自分とはあまり親和性のない意見や発想、考え方に対してもはなから「そんなもん、けっ」という高飛車な態度ではなく、「素直な聞く耳を持つ」という姿勢。それをほんの少し、私は昨年学んだように思うのだ。 そんなことを学ぶのに半世紀もかかってしまったというのがそもそも驚きといえば驚きだが、まあ、性格というのはそうそう変わらないものなので、こんなものでも大きな一歩といってもいいかと思う。 そのレポートにははっきりと書かなかったけれど、新年にあたって私がなんとなく「今年の目標」と定めていることのひとつに、「夢中になること」というのがある。 何かに夢中になって他のことが全然みえなくなっちゃうようなこと、子供にはよくあることだし、特に男の子にはそういう傾向のものすごく強いタイプが少なくない。我が家にも一人、そういう人がいて、まあ夢中になるのはいいとして、そのたびに、なにかが乗り移ったように、なにかに取り憑かれたようになっては、周りを激しく巻き込むので、一緒に暮らすほうは相当疲れる。その反動かもしれないけれど、私自身はここ数年、「夢中」という心の状態を、どこか自分に禁じてきたところがあるような気がしている。その禁忌を今年は少し、解き放ち、忘れかけていた「夢中」をもう一度、取り出してみようかしら、などと思っているのである。 夢中になっても飽きやすいという致命的欠点をもつ私であるからして、このように殊勝な元旦の計をたてたところで、三日坊主的展開になることも大いに予想されるが、まあ、ともかくこうしてパブリックに宣言しておくことで、自分に縛りをかけてみることにした。 さて、なにに夢中になってみるかな(と、対象を探すところから始めるというのが、そもそも夢中道としてはものすごく邪道だけど、久しぶりなのでソフトランディングしかできないのである)。 ちなみに5枚のレポートをさくさくと書いているうち、気づいたら小一時間が過ぎており、深夜はとっくにまわって新年になっていた。窓の外、湖上に打ち上げられる花火がなかなか見事だった。息子と二人、互いのresolutionを読み上げてはああだ、こうだとコメントを交わし、そして「今年もどうぞよろしく」といってハグをした。このお正月は、残りの家族(夫と娘)は、イスラエルで過ごしている。強烈な個性の寄せ集め家族なので、こうして2グループに分かれるくらいがちょうどいいと思うこともよくあるが、互いの「強烈」を尊重しながら、なんとか仲良くやっていきたいもんだ、と、心から願っている。 2011年 12月 27日
![]() 2011年という年は、私にとって生涯忘れられないであろう特別な一年だった。 遠くスイスで体験した日本の大震災と、その余波に色濃く影響された一年。 難しい年頃にある子供にかつてないほどじっくり取り組み、向き合った一年。涙したり途方に暮れたりパニックに陥ったり、あるいはぬか喜びしたかと思えば、また落胆したり。自分のもてるすべての「忍耐」を総動員して、それでもまだ全然足りなくて、眠れない日々、胃の痛い日々の続いた一年。 そしてそれはまた、親しい友を病で失った年でもあった。私より数年年下だったその友は、一年半の闘病の末、8月の朝、帰らぬ人となった。その前日、あるいは二日前、小さな便せんに丸っこい字で私へのお別れの言葉を残してくれていたことを知ったときには、彼女にそのことのお礼を言うことも既にかなわず、棺の中の彼女の手は氷のように冷たく、きりりと結ばれた口元は、もう二度とほころぶことはないのだった。 その友ともっともっと時間や気持ちを共有したいと思いつつ、子供のこと、家族のことでまったく余裕がなくて、彼女に寄り添うことが全然充分に果たせなかった、そのことへの悔いをひきずった8月以降の日々。 その同じ8月には、また別の、こちらはまた別の意味でものすごくショックで悲しい事情を伴うお葬式にも参列したし、時を同じくして遠い日本では老父が急遽入院するという事態も勃発。 そんなこんなで私は右往左往、おろおろするばかり。けれど、日常はちゃんと運営していかないといけないので、毎日ご飯をつくり、仕事も出来る範囲でまじめにやり、犬の世話をし、洗濯をして、どうにかこうにか、家庭人として、また社会人として機能し続けてきた一年。けれどそのご飯をつくることが、今年ほど「楽しくなかった」年はなかった、かもしれない。 元来、私は家事一般は大して好きでもなければ得意でもないけれど、料理だけは昔から大好きだったし、それを苦と思うようなことも全然なかった。家族のため、友だちのためにあれこれ工夫したり挑戦したりして美味しいご飯をつくること、そしてそれをできるだけ美味しそうに盛りつけるためのお皿やクロスなどを少しずつ揃えていくこと、美味しいワインやお酒と共に出来上がった料理を味わうことは、人生の最大の楽しみの一つといっても過言ではない(なかった)といえる、と思う。それが今年に限っては、「料理=義務」という図式に成り下がってしまって、楽しむどころか、多くの場合、淡々と、むしろ我慢してやり続ける作業でしかなかったこと。それもまた寂しいことの一つだった。 料理が楽しめなくなってしまったその理由はここには特に記さないけれど、そんな中、例外的に「案外楽しく取り組めた料理」が、おとといのクリスマスイブの食卓の準備だった。例年、クリスマス休暇は家族とどこかへ出かけることが習慣となっていたが、今年は受験生もいることだし、ということで、スイスにとどまり家族だけでひっそりと迎えるクリスマス。前日にはわざわざジュネーブまで魚の買い出しに出かけるほど、高揚した前向きな気持ちで準備に取り組めたことがまずはポジティブスタート。テーブルもそれなりに頑張ってきれいに飾り付け、段取りもうまくいって、教会に出かける時刻までには準備は完璧に整った。 その「教会」だが、そもそも家族揃って教会に出かける、ということ自体、ユダヤ人の夫と無宗教の子供たち、という家族構成の我が家にとっては革命的な出来事だった。けれど、上述の「さまざまな困難や悲しみ」に彩られた今年、私は無性にクリスマスのミサに行きたい気分だったのだ。そのことを数日前に、おそるおそる「宣言」してみたところ、「だったら僕も一緒に行こうか」と、まずは息子が口を開き、「パパ一人でお留守番は可哀想だから、じゃあ私は残る」と娘はいったのだが、そのパパが直前になって「僕も行こうかな」と言い出し、「ならみんなで行こうよ」という話になって、イブの晩、チューリッヒの英語ミサに揃って出かけたのだった。 ゴスペルあり、子供たちのキリスト生誕劇あり、と、一時間半ほどのものすごくカジュアルで楽しいミサから戻ってみんなで囲んだ食卓は、鯛のカルパッチョや伊勢エビ冷製、タコのマリネ、ホタテのグリルなどなど、魚介オンリーのメニュー。子供たちにはどうだろうかと危ぶまれたが、「美味しい美味しい」と完食! そしてデザートは息子が得意技のブルーベリーチーズケーキをつくってくれたので、それをみんなでいただく。ご飯をつくるプロセス、食卓を飾るプロセス、そしてみんなでにぎやかに食卓を囲むプロセス。このすべてが「普通にうまくいったこと」。それは私にとっては、この一年の締めくくりとして、何よりのクリスマスプレゼントだったかもしれない。 クリスマスのディナーの片付けも済み、プレゼント交換も熱狂のうちに無事終了し、2011年がもうすぐ終わる。 この一年の大変だった出来事のひとつひとつを思い返すだけで、すでに私の目頭は熱くなり、キーボードを打つ指先はわなわなと震え出しそうな気配だが、それでも「大変もまた意味のあることだったんだろう」と、自分に言い聞かせようとする程度には元気も出てきたし、また大変さも少しずつは和らいできている今日この頃。春の訪れはまだまだ先のことだけれど、なんだかんだいって、ともかく心身ともにぶったおれることもなく、こうしてブログなど書いていられるそのことをもって、まずはオッケーとしようじゃないの。 クリスマスキャロルじゃないけれど、このシーズン、幸せと不幸せのコントラストが残酷なほどにくっきり浮き彫りになる。Facebookにアップされる「幸せそのもの」の書き込みや写真が世にあふれ返ると思えば、片や、サンタともツリーともご馳走とも無縁の子供たちが世界中に無数にいる。放射能の脅威におびえながら、失った肉親や友を偲びながら、不便で寂しい仮設住居でクリスマスを迎えた人たちもたくさんおられることだろう。 「もっと不幸な人に比べれば自分はまだマシ。だから感謝しなければ」という発想には私は昔から馴染めなかったし、今もそれは変わらない。だからこれは決して「比較して感謝する」のではない。私が今、感謝することがあるとすれば、それはただ単に、こうして生かされているこということ。そのことだけを端的にありがたい、と思う。 「今年はね、みんなで教会に行くんだよ。半分ユダヤのうちにとっては画期的なことでしょ」 クリスマスの朝、今は自宅で療養中の父、二週間前に90歳の誕生日を迎えたばかりの父に長距離電話でそう報告した。 「何教だろうが構わないさ。みんな一緒くたで上等なこった。仲良くお祝いするのがなんたって一番だ」 痴呆が進んで普通の会話がなかなかままならぬ父が、朗らかに答えた。どこまで事情を理解してそういっているのかは不明だけれど、父の言葉に「うん、そうだね、そのとおりだね」とうなずいて、受話器を握りしめながら、私はこうして生かされていることをありがたい、と、噛み締めていた。 悲しい時、辛いときに力になってくれた、静かに話を聞いてくれた、一緒に涙してくれた友人と家族に心から感謝するとともに、このつたないブログを訪れてくださるすべての方が、平和で安らかな新年を迎えられますことをお祈りしています。 2011年 12月 06日
先週の週末は、息子の通うインターで演劇の上演があった。
たかが、子供の演劇とあなどることなかれ。この学校では、専門の勉強をし、自らも大人の劇団で脚本書いたり演じたり演出したりと大活躍の素晴らしい先生がディレクションをし、参加する生徒たちは三ヶ月にわたり、ほぼ、毎日、みっちりとリハーサルをする。役者はもちろん、音楽、コスチューム、ライティング、舞台装飾からポスターづくりまで、すべて生徒たちが参加。通常、年に二度、大きなプロダクションがあり、毎回、シーズンはじめにちゃんと本格的なオーディションがあって、配役が決まる。 さて、我が息子はここのインターに転校して以来、毎年、この演劇プロダクションに参加してきた。シェイクスピアのテンペスト、モリエールの MEDECIN MALGRE LUI(いやいやながら医者にされ)、ソフォクレスの鳥(の現代バージョン)、不思議の国のアリス、などなど、劇のタイプや内容も毎回、バラエティに富んで、それはそれは素晴らしい作品に仕上がるので、観劇するこちらもわくわく楽しみにしてきた。が、今回は、なんといっても高校生活最後の出演。大学受験や IB(国際バカロレア)の準備など、ストレス満開状態の最終学年だが、本人は迷った挙げ句、「やっぱりやってみる」ことに。時間のオーガナイズがとってもとっても不得意な彼のこと、最後の土壇場になって、あれもこれも時間切れで大パニックに陥るのでは、と私は心配したけれど、何年間も一生懸命取り組んで来た演劇の、これが最後の機会とあれば、やはり頑張ってやってみるのもよかろう、と、ひそかに彼の背中を押して応援体制につとめてきた。 今回の演目は、アメリカの児童文学の古典中の古典、 Dr. Seus の代表的な作品をいくつかミックスしてつくられたブロードウェイ・ミュージカル「 Seussical」。息子はこれの主役(像のホートン)を射止め、来る日も来る日も放課後のリハーサルに参加してきた。あまりに練習がインテンシブで、試験と重なったときなどは、本当に疲れ果てて勉強やる気ゼロの状態になり、それで本人的には集中できない自分自身に対してフラストレーションがたまったりして、機嫌がすっごく悪かったり、家族に当たり散らしたり、と、まあ、いろいろ大変だった。おまけに本番直前1週間でひどい風邪を引き、学校を数日休んだ(ということはリハーサルも休んだ)上に、声が出なくなるか、という危機にもみまわれた。 が、晴れて本番は、もうそれはそれは素晴らしい出来。ミュージカルだから台詞より、むしろ歌のほうが多いくらいなのだが、いったいこれだけたくさんの歌をいつの間に全部覚えたわけ??? と、まずはそのことにびっくり。小さいときからボーイソプラノだったけど、声変わりした後も声域は高い(テノールですね、もしいうとすれば)ので、高音の部分なんかは親の私がいうのもなんだけど、すごくきれいでかっこ良かった。 なにごとにも不器用で、人一倍、感受性が強く、また「どうでもいいようなこと」に対するこだわりがとても強かったり、かといって、外ではとてもシャイだったり、と、小さいうちから彼の人生はいろいろな意味ででこぼこで、本人としても決して「気楽で簡単な人生」ではなかったと思う。自然、親にもほめられることよりはしかられることのほうが圧倒的に多く、頑張ってもうまくいかないこと、報われないこともいっぱいある人生。私はそんな息子のことがいつも心配で、彼に対してはいら立ったりがっかりしたり、怒ったり、というようなことをものすごくたくさんしてきた。 でも今、舞台の上で高らかに歌っている彼は、本当に立派で、そしてなにより(演技かもしれないけれど)晴れ晴れと楽しそうだ。こんな素敵なことができるんじゃん、あんた。すごいじゃないの、と、母さん、もう感動しっぱなし。苦労の多い子だったから、よけいにこういう「晴れがましい状況」が胸にずしりと響く。ゆっくり、とてもゆっくりではあるけれど、この子もなんとか成長している。そういう実感をそのとき私は確かに抱くことができた(滅多にないことだ)。それが、ただただ嬉しかった。 こういう母をみて、息子はいうだろう。 「また、ママのドラマクイーンがはじまった」 ドラマクイーンで悪かったけど、でもしょうがないじゃん、母さん、涙止まらないんだもん。 頑張れ、息子よ。母さん、あんたをずっと応援するからね。
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