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2012年 05月 19日
スイスはこのところ、激しく上下する気温(34度〜2度)、ヒョウや雷の来訪かと思えば、突き抜けるような青空にくっきり浮かぶアルプス、という数時間があったりと、とても不安定なお天気が続いていますが、みなさま、お元気でお過ごしでしょうか。
長らくご無沙汰していましたが、本日は久しぶりにフェアリーテールから新商品のご紹介をさせていただきます。夏の訪れに先立ち、「忘れかけていた買い物の楽しさ」(←自省も込めて)をもう一度、思い出していただければ嬉しいです。 ウッドブロックのサマーチュニック ![]() 古くから伝わるウッドブロックの手法を用いてひとつづつ手作業でプリントしたコットンは、肌触りも柔らかく着心地満点です。楽しい色柄やスタイルが揃いました。チュニックブラウスとして、また、一部はワンピースとしてもお召しいただけます。95スイスフラン〜 詳しくはこちらから→ フェアトレードのシルバー・ジュエリー ![]() 生まれたてほやほやのブランド、SWANIから届いたジュエリー・コレクションです。SWANIの商品は、作り手の顔のみえるフェアトレード商品。しかも、作り手たちはみな、熟練した銀加工の腕の持ち主です。フランスでデザインされ、ペルーでひとつひとつ丁寧につくられたジュエリーには、ペルーに古くから伝わるシンボリックなモチーフが精緻な加工で生かされています。素肌に身につけるものだからこそ、生産過程の透明性がよけいにずしりと響きます。シルバージュエリー65スイスフラン〜 詳しくはこちらから→ バンブーコレクションに新顔アイテム登場 ![]() バンブーに天然樹脂と天然染料のコーティングを幾重にも施したカジュアルシックなテーブルウェア・コレクション。難民としてベトナムからフランスへ渡った少女が大人になり、二十数年ぶりに訪れた故郷で発見した、祖国の古い伝統工芸。それを自分を育ててくれた国、フランスに持ち帰ることで、彼女は“二人の親”への感謝を表現したかったのだといいます。生産プロセスは透明なフェアトレード。そしてデザインはポップでコンテンポラリー。さらにいえば、バンブーそのものが生態系に不可欠、かつ、自生力にすぐれた、きわめてエコな木でもあるのです。定番のボウル(10センチ、14センチ)に加え、深めのサラダボールやトレイなど、新作アイテムも加わりました。軽くてかわいいことはもちろん、水にも油にも強く、長く長くお使いいただけます。ボウル(10cm)20スイスフラン、サラダボウル65スイスフラン〜 詳しくはこちらから→ リネンのトップス ![]() ヨーロッパでは古くから、海岸線沿いの地域でリネンが栽培されてきました。コットンやシルクと違い、リネンはヨーロッパ大陸の気候や土にもっとも適した、この大陸唯一の天然繊維。したがってそれは他の土地に生産拠点を移動することができない、まさにヨーロッパならではの素材なのです。 欧州理事会・欧州議会委員会のレポート(2008年)によると、「リネンの栽培はエコシステムにポジティブなインパクトをもたらし、また輪作による休耕は土質や生物多様性、そして土地の風景そのものに有益な環境作用をもたらす」ものだそうです。 実際、その栽培には水が不要(雨水のみで十分)、かつ肥料も不要という点でも、リネンは優れてエコロジカルです。 欧州連合加盟の14の国で、リネン産業のすべての段階にかかわる企業はおよそ1万。リネン農家、紡績業、織物業、流通業などが一体となって、この産業を支えています。リネン産業は地方の過疎化を防ぎます。多くの産業が海外の安い労働を求めて海外へ生産過程をシフトするのと違い、リネンはその土地での熟達した労働力を必要とするからです。 私は個人的に昔からリネンという素材が大好きで、ファッションだけでなく、暮らしのさまざまなシーンでリネンを愛用してきました。けれど、上でご紹介したようなその生産背景を知ってからは、ますますリネンを愛おしく思うようになりました。 そんなわけで、ほんの少しではありますが、ヨーロッパメイドの上質のリネンのチュニックやブラウスをこの夏用にお取り扱いすることになりました。どうぞ、その極上の質感をお手にとってお確かめください。 リネンブラウス 140スイスフラン〜 詳しくはこちらから→ 上記はほんの一部です。その他の商品はこちらからご覧いただけます→ 2012年 04月 05日
この欄でも幾度か触れた病床の父が、去る3月23日、入院先の病院で亡くなった。存命中、いろいろご心配いただいたみなさまにこの場をお借りして心よりお礼を申し上げたい。
父、危篤の知らせを受けてからわずか数時間後の出来事。とるものもとりあえず、翌日の飛行機で帰国。成田エクスプレスと新幹線を乗り継いで実家にかけつけた。病院から自宅に戻り、入院前に寝ていた介護用のベッドに横たわった父の遺体に、ちょうど死化粧が施されているところだった。母と、日本国内在住の弟三人が父の遺体を囲み、海外組一番乗りの私がその輪に加わった。その夜、地元の教会でお通夜、翌日、同じ教会でお葬式が執り行われた。日本は思いのほか寒く、喪服に薄い春用コートという格好で、私は終始、ぶるぶる震えていた。 寒がりだった父は、若い頃に留学したアメリカの大学のグリーンのセーター(大好きで毎日のように着ていた)を着て、足下は膝掛けでくるまれ、首周りには数年前に私が贈ったマフラーを巻かれ、棺の中に横たわっていた。 人が亡くなるときには、不思議な現象がいろいろと起こるものらしいということは、私もあちこちで見聞きしていた。ご他聞に漏れず、父の場合も、そのようなことがいくつかあった。 父が亡くなる数時間前、弟(弟2)の奥さんのおめでたが発覚。その知らせを、父のもとに向かう弟が新幹線の車中から母に伝え、それを母が父の耳元にささやいた。すでに呼吸が浅くなりはじめていた父ではあったが、新しい孫が生まれるんだよ、という知らせに、ぴくっと反応したという。誰も口にしなかったけれど、父の危篤以降の数時間内、日本国内国外の兄弟間をとびかうこの知らせに、誰もが「ああ、父の生まれ替わりに違いない」ということを思った。 父が亡くなる数日前、長年の同僚であり、また親友であった米国人の神父さんから、突然、弟のひとり(弟1)に電話がかかってきた。「お父さんのお宅のほうに何度かお電話したけどお留守のようだったから心配になって」ということだった。その神父さんには父の入院のことは知らせてなかったのに、なにか虫の知らせでもあったのか。弟から父の入院のことを知った神父さんは、翌日、新幹線と在来線を乗り継いで、名古屋名物のえびせん「ゆかり」をお見舞いに、病床の父を見舞いにかけつけてくれた。すでに意識が混濁としていた父だったが、親友の来訪ははっきりと理解し、親友が唱えてくれた祈りの最後には、残された力を振り絞るかのようにして十字を切ったという。 その神父さんが、お葬式の朝、再び新幹線に乗って、式会場の教会までいらしてくださった。そこの教会の神父さんと相談の上、葬儀のミサは二人で一緒に挙げてくださることになった。お説教のときは、親友の神父さんのほうがお話をされたが、それはお説教というよりは、故人の思い出、故人と神父さんとの個人的な関わりを中心としたしたお話で、たどたどしい日本語で語られた、けれど父への敬意と愛情に満ちた心に染み入るものだった。 実は父は昨年の夏にも一度倒れ、三週間ほど入院していた。そのときにそのまま天に召されてもちっともおかしくない病状だったのに、なぜか奇跡的な回復をとげ、自宅に戻ることができた。それから5ヶ月後、この世に残された父のたった一人の姉が亡くなった。回復したとはいえ、体力はぐっと落ちている父であったが、「姉の葬式に行かないわけにはいかない」と、寒さの厳しい1月、東京のお寺で営まれたお通夜とお葬式に連日、出席。棺の中の姉に向かって、「ねえちゃん、世話になった」といって一礼した。そのときの父の「元気ぶり」は、周りの誰もが信じられないほどのもので、「これ、反動が怖いよね」と話していたら、案の定、そのわずか二週間後に再び、倒れ、入院。そしてそのまま父は帰らぬ人となった。あたかも、姉をまず見送ってから、という父なりの礼を尽くしたかのようなタイミングだった。 今回の入院中、海外に住む娘三人はそれぞれ、飛行機に乗って滞在数日という日程ではあったが、病床の父を見舞った。「もしかしたら」という思いで、それぞれスーツケースには喪服もしのばせての帰国。かたや国内在住の弟たちは、仕事や家庭で忙しい中、何度も家と病院を往復し、病床の父を、そして父に付き添う母を見舞った。入院直後に亡くなったとしても決して不思議ではないほど弱っていた父だったが、結局、50日間、彼は生き続けた。あたかも、子供たち全員に会ってから、という父なりの段取りを実践したかのような「ねばり」だった。 50日間、病室に寝泊まりして付き添った母は、口には出さなかったものの、心身共に疲労の限界に達していた。あと一週間、あと数日長引いていたら、母自身が倒れていたとしてもちっとも不思議ではなかった。「ごくろうさま。もう休んでいいよ」ーーあたかも、疲労の極限に達していた母を解放するかのような、父の旅発ちのタイミングではあった。 そして父の遺体が自宅から教会へと出発する日。家の前に臨む富士山は、それはもう見事としかいいようのない勇姿をそこにみせていた。「東京には富士見坂とか、富士見ヶ丘なんて地名がたくさんあるだろ。東京もんは富士山が大好きだったんだな」――その東京もんの端くれだった父もまた、富士山にことのほか、強い愛着を抱き、私がスイスから電話するたびに「ここはいいところだ。風光明媚で空気がきれい、それになんといったっておまえ、富士山が見事なんだ」といっていた。高層ビルの乱立で、富士見坂と名のつくものの、富士の「ふ」の字も拝めないところだらけの東京になってしまったけれど、静岡のこの地からは毎日、富士山が見えて、そりゃお前、素敵なんだ、といっていた。雄大な富士に見送られ、あの日、父は父だけの富士見坂を上って空高く召されていった、かのようだった。 お葬式の挨拶で、長男である弟(弟1)が会葬者の方々に語った話の中に、こんなものがあった。 「90年の父の人生。それを振り返ると、誕生の翌年には関東大震災、亡くなる前年には東北の大震災。そして成人の年には太平洋戦争、という、いずれも日本の大惨事に節目節目で刻印されたかのような激動の90年でありました」 父が最後にスイスに遊びに来たときに気に入って衝動買い(そういうことをよくする人だった)した、バリーのけっこうイケメン系のかっこいいメッセンジャーバッグを、この弟が「これ、かっこいいね」といって、遺品に貰い受けた。 「上等なものなんだから、お前、大事に使えよ」 ご挨拶を立派にしてみせた息子、残された母を一生懸命気遣う息子、かつての「ふがいない、心配の種以外のなにものでもなかった息子」の成長に、父もさぞかし安心していることと思う。 2012年 03月 14日
前回、飛騨川とタンホイザーのことを書いたあと、「そうだ、お父さんにCDを送ろう」と急に思い立った。さっそくアマゾンJPでいろいろサーチ開始。タンホイザーはともかくとして、絶対、欠かせないのはシューベルトの冬の旅、特に菩提樹の歌、それに野バラ、そして、ドヴォルザークの「新世界より」の第二楽章。なぜなら、遠い昔の日々、父は音程どっぱずれながら、いつもこれらの歌をそれはそれは楽しげに口ずさんでいたものだったから。
ドヴォルザークの「新世界より」の第二楽章は、その後、日本で「遠き山に日は落ちて」という愛唱歌に変身、これを父は鼻歌風に繰り返し繰り返し口ずさんでいた。最初のほうこそ「♪と〜おき〜や〜まに〜ひ〜はお〜ちて〜」といい感じに始まるのだが、途中から歌詞がわからなくなって、ただでさえあぶなっかしいメロディーラインがただの「ら〜らら〜る〜るる〜」となる。お風呂の中、トイレの中、書斎のドアの向こう側、大学からの帰り道、などなど、どこでもかしこでも父はそれこそ「馬鹿の一つ覚え」よろしく、明けても暮れてもこればっか歌っていた時期があったものだった。 アマゾン探検の結果、幸いなことに、日本にはものすごく種類豊富にベストヒット的コンピレーションCDがあることが判明。その売れ筋上位のいくつかの曲目を丹念にチェックした上で、最終的に選んだのは「どこかで聴いたクラシック」というコンピ、そしてシューベルトの鱒のピアノ五重奏版。「どこかで・・・」のほうは、それこそCMとか映画で使われた「あ、聴いたことある」系のメジャー曲のオンパレードで、オーダーするのがほとんど恥ずかしい(って、誰に対して恥ずかしい、という話になるけど)タイプのものではあったけれど、今さら「◯◯の振る◯◯」みたいな通好みものを押し付けることも、父の人となり、そしてその置かれた状況を鑑みた場合、まったく意味がない。 さて、その「どこかで聴いた・・・」には、野バラも菩提樹も、そしてドヴォルザークもバッチリ収まっている。そして野バラや菩提樹を浪々と(と思う)歌うのはフィッシャー・ディースカウ、とある。 父の入院する病院の住所を届け先にしてポチッとオーダー完了。実は気の効く弟が、すでに一週間ほど前、「お父さんが音楽でも聴きたいかなと思って」と、CDプレイヤーを、確かモーツァルトかなにかのCDつきで送ってくれている。モーツァルトばかりでも退屈だろうから、新たなレパートリーが来たら喜んでくれるかな、少しは目を覚まして耳をすましてくれるかな、と、送る私もちょっとドキドキわくわく。 数日後、付き添いの母からの携帯メールで、CDが無事届いたこと、そして「今日はこれを」「明日はこれを」というふうに、膨大な曲目の中からあれこれ選んでお父さんと一緒に聴いてるわよ、という連絡があった。追って電話をかけた私に母は「フィッシャー・ディースカウはずいぶん速いテンポで野バラを歌ってるんでびっくりしたわ」といった。へ〜そうなの、という程度の反応しかできないでいると、母は続けて 「フィッシャー・ディースカウといえばね、私が高校生だったとき、なんと学校に彼が来て、みんなの前で歌ってくれたのよ。懐かしいわあ」 というではないか。 え、名古屋くんだりの女子校(母が通っていたのは名古屋でいちおう名門といわれる私立女子高だった)に、フィッシャー・ディースカウ直々のお出ましって、それ、どういうことなわけ、とぶったまげたが、なんでもカトリック系のその学校の校長をしていた神父さん(ドイツ人?)が、彼と懇意だったか、間接的に知っていたか、というような理由で、特別に立ち寄ってくれたということらしい。興味をおぼえて少し調べてみたが、母が高校生だった時期に彼が公式に日本に公演に来たという記録は見つからなかった。まだ若かった彼は、仕事というよりは旅行目的で来日して、そしてついでに地方の高校でお下げ髪の女子高生たちを前に、そのバリトンを披露したのだろうか。 母に電話したついでに、「話にはならんだろう」とは思いつつ、一応、父にも替わってもらった。受話器を自分の手で持てているのかどうか、私にはわからなかったけれど、返答のない相手に向かって、私は一人でしゃべり続けた。 「お父さん、この間、わたしが送ったCDね、昔、お父さんがよく歌ってた歌が何曲か入ってるから、もしかして懐かしいかな、と思ってさ。痛い時とか苦しい時、せめてそんな歌でも聴いて、ちょっとでも気が紛れたり休まったりしたらいいかな、って。覚えてる? 旅路っていう歌、よく歌ってたよね、ね、お父さん・・・・」 時折、うーとかはーといううなり声が聞こえてくる。「◯◯◯◯」と、なにかをいおうとしている気配も感じられる。一言たりとも聞き取れなかったけれど、「そう、うん、そうだね」と相づちを打ち、それじゃ、またね、お祈りしてるね、といって短い通話を終えた。 なにしろ旧制高校世代の父である(父は旧制高校ではなくて、商業高校生だったけれど)。シューベルトの歌曲の一つや二つ、ドイツ語で暗記するくらいちょろいもんだ。 ♪Sah ein Knab’ein Röslein steh’n と(ややウムラウトの発音怪しいながら)歌っていた父。 かと思えば大正生まれならではの古風な日本語もお茶の子さいさいなわけで、同じメロディーをときには ♪童(わらべ)は見〜た〜り 野中の ば〜ら なんて歌ってもいた父。 ああ音痴だなあ、まったく、と、私はこっそり部屋を抜け出したりしたものだった。外出時には、お願いだから人前では歌わないでと、祈るような気持ちだったものだった。 そんなことも今や遠い遠い昔話。 ちなみにそのベストヒットCDには、ドビュッシーのピアノ前奏曲「亜麻色の髪の乙女」も入っている。 「お父さん、これね、今、私が練習してる曲なんだよ」 「子供のときは練習さぼることしか考えてなかったけど、大人の今はけっこうまじめに練習してるよ。もっとはやくにやっときゃよかったよね」 一方的にこちらが話し、向こうがモゴモゴいうことに対しては適当に相づちを打つしかない。そんな今の父娘の対話状況だけれど、なんだかこれがけっこう楽しくて、そして私も小さな娘に戻ったみたいな気持ちになるから不思議だ。 2012年 03月 03日
表題の唐突さに、「どういうこと?」と首をかしげる方も多いことだろう。
日本史上最悪のバス事故といわれるこの惨事が起こった時、実は私自身、飛騨川をバスに揺られてまさに越えんというところだった。昭和43年8月。私は6歳。名古屋の大学で教えていた父が、「部長」をつとめていた大学オーケーストラの合宿が、お盆休み前の数日間、飛騨の山奥で行なわれ、私は父に連れられて、お邪魔虫としてその合宿に参加していた。その事故の日は、ちょうど合宿の最終日で、荷物をまとめた大学生のお兄さんお姉さんたちと共に、父と私もまた、観光バスに乗り込んで名古屋へと戻る途中だった。 台風の影響で前日は大雨。その日も朝からパッとしないぐずついた天気だった。それでも昼あたりには雨も上がり、注意報も出ていたようだが一行は「帰りましょう」という判断をしたのだろう。いかんせん、6歳の子供だった私の記憶は非常にあいまいなものでしかないが、ともかく無事に名古屋に帰り着いたとき、ものすごく大げさな感じで出迎えを受け、「よくご無事で」というようなコメントがそれこそ嵐のように降り注いできた・・・・ようなおぼろげな印象が残っている。 子供心にも「どうやら危機一髪のところでわたしたちは助かったらしい」という状況を理解し、そして周りの緊迫した雰囲気のもたらす強い印象が、心のどこかにきりりと刻まれたまま、残りの夏休みは過ぎていき、そして二学期がはじまった。 車窓に打ち付ける雨粒と共にもう一つ、私の記憶にきりりと刻まれたものがある。それが表題にあるタンホイザー。毎日、宿泊所のホールでお兄さん、お姉さんたちは音楽監督の先生(父のほかに、そういう専門家がちゃんと来ていた)の指揮のもと、ワーグナーのタンホイザーの大行進曲を練習していた。いや、ワーグナーだのタンホイザーだのというボキャブラリーは、もちろん当時の私には存在しておらず、ホールの端っこにテーブルや椅子がごちゃごちゃっと寄せられたあたりで、適当にくつろぎつつ、彼らの奏でる音楽を聞き、そして、指揮のおじさんが出す指示に耳を傾けたりしていた。 6歳の私には、お兄さん、お姉さんたちの演奏は、それはそれは素晴らしいものに聞こえた。 前年まで自由学園系の幼稚園に通っていた私は、学園の「音感教育重視」のポリシーを反映し、園児全員参加の「合奏」というものをやらされていた。園児たちは好き嫌い、うまい下手にかかわらず、「全員、ピアノのレッスンを受けること」を義務づけられ、さらに「音感」という名で呼ばれていた、要するにリトミックとソルフェージュのミックスされたようなものも週一回、受けることになっていたが、「合奏」はそうした音感教育の一環として、採用されていたのだった。たった5歳や6歳とはいえ、一斉スタートではじめたピアノや音感のお稽古にも、飲み込みの早さには明らかに差が出るもので、「うまい子」「下手な子」の差というのが、如実に暴露されるのが、この合奏における「楽器の割り振り」というセレクションプロセスであった。「うまい子」は、シロフォンとかピアニカといった鍵盤系の楽器を割り当てられ、「真ん中へんの子」は、かっこー笛とか、トライアングル、そして「下手な子」たちにはカスタネットとかタンバリンなどがあてがわれた。「おもちゃのシンフォニー」(モーツァルト)といった曲を園児用に簡単に編曲されたものを私たちは毎週練習し、年度末の発表会で父兄を前に演奏したのだった。 オーケストラといえば、自分たちの「合奏」くらいがとりあえずはわかりやすい身近な例だったため、この飛騨での合宿で目の当たりにした「大人のオーケストラ」とは、これまたなんと、私たちのものとは違って上手なんだろう、と、私は目を丸くして感心していた。なのに指揮の先生は、何度も何度もやり直しをさせる。「こんなに上手なのに、ずいぶん厳しいんだね、あの先生は」と、驚きを口にし、父は「そうだね、ずいぶんおっかないね」と私に話を合わせてくれていた。 プルーストのマドレーヌではないけれど、以来、私はタンホイザーのマーチを(それがタンホイザーという名前とも知らないまま)耳にすると、6歳の夏にトランスすることができるようになった。それは、あの「うっとりするほど上手(だと思った)お兄さんとお姉さんたち」の弦楽器の弓使いのイメージだったり、足の届かない椅子に腰掛けて、所在なげに足をぶらぶらさせていた自分の面影だったり、まだ若くて髪もふさふさしていた父のことだったり、そして、飛騨川バス転落事故を大々的に報道していたその晩のテレビニュースだったり。 いや、もっと正確にいうならば、トランス状態に入るためにはタンホイザーを実際に耳にする必要すらなかった。タンホイザーなんてものを全然知らないまま、けれど、その音楽は私の脳裏にずっとずっとこびりついて離れなかった。「飛騨」と聞くと、ひとりでに主題の旋律(たぶん、おっかない指揮のおじさんが何度も繰り返させていたところだったのだろう)が口をついて出てくる。それが脳のどこかで高らかに鳴り響きはじめ、そうして私は飛騨のバス事故の映像のほうへ、あっという間にワープするのだ。 「ところで、この曲は一体なんなんだろう」ということを、はじめて自覚的に問うたのは30歳、いや、40歳を過ぎてからのことだったか。頭出しクイズじゃないけれど、この曲、この曲、と知っていても題名がわからない場合、いったいどうやって調べたらいいんだろう。しかも私が覚えているのは印象的なテーマのところだけで、実際、曲ので出しが本当はどうなっているのかもわからない。そんなある日、音楽好きの友人に「ねえ、この曲って何かわかる?」といって、覚えている節を歌ったら、彼女、しばらくして「ワーグナーだと思うよ」と答えた。ピンポーン。数十年の疑問が氷塊し、やっと、やっとのことで私はタンホイザーにたどり着いた。その頃までには、ワーグナーという作曲家の「政治的な意味」「ナチスとの関係」みたいなことも、なんとなく知っている程度には大人になっていた。 大昔のことを突然、思い出したのは、現在入院中の父と、おそらくはもう、「意味のある会話」ができないから。6歳の子供を、一体、なにを思って大学生のオケの合宿に父は連れて行こうと思い立ったのだろうか。合宿期間中、私はちゃんとおりこうにしていたのだろうか。リハーサルのお邪魔になるようなことはしていなかったのだろうか。バスでお隣同士に座った父とは一体、どんなことを話しながら帰ってきたのだろうか。 一介の商人の息子だった父は、もちろん音楽教育というようなものは受けておらず、家の二階に下宿していた東大の学生さんの薫陶を受けたり、後に留学したアメリカでの体験などを経ることによって、「ほ―、世の中にはこういう素敵なものがあるのか」というふうに、西洋映画や西洋音楽、西洋料理などを自力で発見してきた人だった。シューベルトの冬の旅が好きでレコードを買ってきて、それをよく口ずさんでいたけれど、子供の私からみても「音程合ってませんけど」というくらい、調子っぱずれにしか歌えていなかった。小林秀雄が書いたモーツァルト論とか、フルトベングラーの伝記なんかが、書棚の一角には並んでいたけれど、生涯、楽譜は読めるようにならなかった。そんな父が、「音楽部の部長」というポジションにつくこと自体、驚きというか、「そんな無茶な」という状況なのだが、父には自分の手の届かない西洋音楽という深海へのロマンチックな憧れがあったんだろうなあと今にして思う。子供たちには「ぜひとも音楽を」といって、全員に小さいうちから楽器を習わせたのも、そんな父の可愛い夢の実現第一歩だったのかもしれない。 あれもこれも聞いておきたかったな、と思うけれど、それもかなわぬ今頃になって、飛騨川バス転落事故とタンホイザーがぐるぐる旋回しながら私の意識の内と外にたむろし続けている。人の記憶や連想のメカニズム、その不思議に身をゆだねながら、来し方に思いを馳せる。こういう心の状態を文学的といわずして、なんと呼んだらいいのか、今の私にはよい言葉がみつからない。 2012年 02月 22日
こんなときが来るとは思っていなかった・・・わけではもちろんないのだが、先手を打ってあれこれオーガナイズしておくだけの用心深さや思慮深さを持ち合わせず、その上、私は遠いスイス暮らし。多くの人が経験する「親の老後」に遠隔というさらなるハンディが加わり、そして事情はここにきていよいよ急展開。慌てふためいて、ここ数日、狂ったように情報を検索し続けている。
子の思惑と親の思惑、さらには複数、子がいればそれぞれの思惑が美しいハーモニーで合致するなどということは、もちろんあり得ない。「よかれ」と思ってすることが、相手には「余計なお世話」だったり「気が乗らないこと」だったり、という、実に平凡な葛藤に私もまた、日々、さらされている。 私がスイスでお手伝いしているケアチームジャパンという相互援助組織には、「遠距離介護」に実際的に取り組む部門があり、理念やシステムの上で、私もこれはなかなかよいのではないかと思ってきた。そのうちの一つ、ナルクスイスでは、日本のNPOナルクと提携し、スイスで貯めたポイントを日本の両親の援助のために活用する、というシステムを積極的に導入。すでに多くの方がこのシステムを利用している。 だったら私も、と思って、数年前から会員になり、ボランティア活動などを通し、ささやかながらポイントも貯めてきた。ことあるごとに「こういうものがあるから、是非、利用してね」と親にはすすめてきたが、今日に至るまで、1ポイントたりとも利用してもらっていない。両親の住む土地の地元のコーディネーターの方を紹介してもらって、そちらからコンタクトをとっていただくことまでしたけれど、当の本人、ちっとも利用してくれない。あまりしつこくいってもうるさいだろう、と私も遠慮しつつ、けれど、介護共倒れの危機に何度も直面している両親を遠くから見るのも忍びなく、さりとて、どかどかとしゃしゃり出て行くこともはばかられ、そんなかんなでずるずると年月がたってしまった。 そうこうするうちに父は入院。ずっと付き添う母も、簡易ベッドに寝起きし、売店買いの菓子パン、弁当で食いつなぎ、そして認知症の父に振り回される密室暮らしで心身共に極限状態にあることを、このたびのとんぼ返り帰国で目の当たりにし、ああ、これはよくない、本当によくない、と痛感。けれど、だからといって、「お父さんの介護はプロの方にお任せして、お母さんは自分のことももっと大切にしないと」などというアドバイスは、そうそう気軽に口にできるものではない。張り切ってあれこれ仕切るばかりが能ではないとはわかっているけれど、でもじゃあ、どうしたらいいのだろう。 病院では看護師さんたちがとてもよくしてくださるし、担当のお医者さんもなかなか出来た方という印象を受けたので、その点では安心したが、ひとたび体のほうがある程度回復してきたとしたならば、いつまでもこうして入院し続けるわけにもいかず、かといって、今のような要介護の状況でいきなり自宅で二人きりというのはいかにも心もとない(というか、実際、無理だと思う)。けれど「人の手を借りる」ということに対し、私など想像もつかないくらいに母には抵抗があるようで、そこのところが大変難しい。 年賀状やクリスマスカードにみんながにっこり笑った家族写真を掲載するという、あの流儀が、どういうわけか私は昔から苦手だった。いや、人からいただくぶんには一向に構わないというか、むしろ、写真を通してお子さんの成長ぶりなどを拝見するのはとても嬉しいことだ。けれど、自分からそれをやる、ということはついに一度も行なわないまま、この夏には上の子どもは家を出て大学生生活をはじめる年齢になってしまった。家族というものがもつ、重い側面、負の側面に全部ふたをして「幸福そのもの」という様子を外に向けて公表するという部分におそらくは居心地の悪さを感じるからこそ、写真付き年賀状には手を出さないできたのだろう。ひねくれた性分だとは思うけれど、今さら自分を大きく変えることはできないので仕方がない。18歳で家を出て下宿生活を始めて以来、遠くにありながらそれとなく気にしつつ、けれどこちらから甘えるとか頼るというようなことは可能な限り封印した形での付き合いを、私は自分の家族に対して行なってきた。これも長子の宿命、はたまた、私自身の気性のなせるわざか。 けれどできうることならば、我が家族が抱える重い側面、負の側面をも全部ひっくるめて、いびつだったり、傷つけ合うことが多かったりしながらも、なんとか仲良く助け合ってやっていきたいものだと切に思う。老いていく親、子どもみたいになってしまった父。子育て真っ最中だったり仕事の上でのチャレンジに直面して、ばたばた忙しくしている兄弟たち。そんな私たちが、もう一度、仲良く助け合えるならば、子どもみたいになってしまった父も少し安心するだろうか。安心してよく眠れるようになるだろうか。
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