序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2012年 07月 14日
フランスの作曲家、クロード・ドビュッシーはかなりの手紙魔だったらしく、相当数のものが残っていて、それを後世の研究家が丁寧に整理、編纂した成果が「correspondance」という分厚い書物になって出版されている。ひまにまかせてパラパラとページをめくっていると、金の無心から同時代作曲家や演奏会の感想(と悪口)、求愛の類にいたるまで、実に人間臭い香りがプンプンと漂ってきて、読み物としてもなかなかおもしろい。 その中にこんな文章を見つけた(邦訳が手元にはないので、原文を拙訳します)。 「家庭というものに心奪われること、それが自分にどんな影響を及ぼしているか、自覚しているつもりです。そして、そうした、きわめて強力な精神的絆をまさに考えつつ、私は一度ならず、芸術家というものは結婚すべきではない・・・という大変無情な真実に直面しました。ええ、そうですよ! 自分の妻や幼い娘を限りなく愛していますから、私は自分が踏み越えた一歩を一瞬たりとも後悔したことはありません。けれども、今述べた真実を心の底から確信しています。つまり、芸術家は人生において可能な限り自由であることを渇望すべきです。家族についていえば、自分の父母だけで、芸術家には十分でしょう。ひとりの妹、それでも、すでに余計です。そう思いませんか?」 ドビュッシーは幾度かの恋愛遍歴をへて、確か結婚を二度して、その二度目の妻との間にシュシュという可愛い名前の女の子を設けている。「幸福な家族」的な写真なども残ってはいるが、芸術(=聖)と家庭(=俗)との間でもがき苦しむ彼の葛藤については、私自身、大変低いレベルながらそれを実感しないではない者であるため、少々身にしみるというか、ともかく「そうだよねえ、それってあるよねえ」という痛く切ない共感を抱くのである。 作家ヴァージニア・ウルフの結構有名な言葉に A woman must have money and a room of her own if she is to write fiction. というものがある。前半の「お金が必要」という部分に関しては、早い話「パンのために生きる」ことと「創造的なこと」との葛藤、そして(ウルフの人となりを考えるに)女性の自立というようなこともたぶんそこには含まれている。さらにいえば、私のように「いいもの、美しいもの」に目がなく、なおかつ経済観念があまり発達していない人間にとっては、「節約」みたいなことにあんまり頭と気をつかわない人生のほうがたぶん幸せだし、自分の仕事にも没頭できるかもね・・・というような発展的解釈にまで及んでしまう。 フィクションを書く書かないは別として、何か少しでも創造的なことをしようとするときに、(理想的には鍵をかけられる)自分の部屋があるというのは、ある人にとってはどうでもいいことかもしれないけれど、私にとってはかなり大切なポイント。キッチンで小説が書けちゃう主婦作家というような人もけっこういるようだが、たかだか雑誌の原稿一本書くのにも、私は一人で部屋にこもらないと「そういう気」になれない性質(たち)。仕事だけでなく、たとえばピアノの練習なんかも、家に誰か人がいると、もう駄目。特に今の家ではピアノがリビングルームにあり、玄関からもキッチンからも見渡せる状態なわけで、二階に人(たとえば息子)の気配がするだけで、私はなんだか落ち着かなくて練習する気にはなかなかなれないし、ましてや「ねえ、今日のご飯何?」などと素っ頓狂に声をかけられた日には(非常によくあること)、あ〜、なぜ、邪魔をする、お前は!? と、それはまるで天から地にすとんと旧落下してしまったような最悪な気分になって、そこから再び上昇することがとても難しいのだ。 若い頃に大好きだったトーマス・マンの、中でもことのほか好きだった小説が「トニオ・クレエゲル」。今読んだらきっと同じようには読まないのだろうけれど、当時(というのは大学生の頃)、そこに二元論的に並置されている「芸術世界と市民的な俗世界」というテーマには、本当に稲妻に当たったみたいな衝撃を受け、「こ、こ、これだ、私が知りたかったのは!」と、大感動したものだった。やはり若さ故の潔癖がまさり、「芸術とか学問」と「実生活」は二者択一でどっちかを選べば他方は捨てなければいけないものだ、と思い詰めていたところがあったからだろう。そして、哲学のお勉強もそれなりに楽しかったけれど、そこの世界に引きこもって仙人みたいなライフスタイルを送るなんてことは、到底考えられず、かといってこの世の春を謳歌しているかのようにみえた当時の「女子大生ブーム」の中にどっぷり浸かるだけ、というのも、どう考えてもつまらなすぎる、じゃあ、どうしたらいいわけ、とジレンマの渦におぼれそうになっていたという事情もあった。結局、トニオ・クレエゲルからは自分用の答えをみつけることはできなかったけれど、考えるべきものとしてそのような対立項目がこの世には存在している、ということは、私の認識のどこかにしっかりと刻まれたように思う。 同じ頃、ギリシャ哲学の授業で、プラトンの概念としての「真善美」ということを耳にした。人の行為、国家の行為といったものをジャッジするときのファクターとして、それが真であるか(否か)、善であるか(否か)、美であるか(否か)というふうに考えるとして、その場合、もっとも理想的なファクターはさて、なんぞや、というような話だったと思うけれど、本能的に咄嗟に答えを出すとしたら「そりゃ、美でしょ、やっぱり」と、私ならいう。誰それさんの行いに関して「善か否か」と倫理的判断を下すのは、なんだか大変おこがましいことのような気がするし、ブッシュがイラクを攻めたときに、それを「正義」と謳うあの感覚と、絶対につながっていてぞっとするからである。じゃあ、真はどうか、というと、これは善よりは多少マシだけれど、科学的な「真」はともかくとして、哲学的な意味での「真」なんて、結局、解釈、いや、好みの問題に収束されるのでは、という気が年々増してくるから、これも今ひとつ。 で、最後に残った「美」。たとえば、人を殺すのはなぜだめなのか、という問いがあったとして、この問いへの答えに「それは美しくないから」というとしたら、それはかなり強力なのではないか。ミューズはただそこに存在していて、人を美しいものへと誘い掻きたてる。きれいな女の人をみたら、ああいいな、と思うわけだし、美しい音楽は人をどこかの高みに引き上げたり、心の奥底を激しく揺すぶったりする。「美」は単にそこにあり、なんら優劣の争いもなく、端的に強力。 ドビュッシーの下世話な手紙(もっともらしい理由と自己正当に満ちあふれたお金の無心というのが実に多いのである)に混じって、創造者の苦悩が洩れ聞こえてくる文面を発見すると、私はやはり「見つけた、見つけた」という気もちになって嬉しい。そして思うのだ。あなたがそうやって悶々としながらこの世に生み出した曲の数々が、ときに非常にさらりと美しく、葛藤の「か」の字も見せないふうに仕上がっている、そこのところに私は感動するわけですよ、と。浪花節よろしくこぶしをきかせて何もかも激情こめてお披露目しちゃう、という流儀と、表面上さらりと、でも何かある、絶対ある、とほのめかす流儀。それぞれいいことろがあるけれど、強いていえば後者のほうにより美的な意味での親和性を感じるからである。 こちらはもうすっかり夏休み。この夏は久しぶりに本をたくさん読めるといいなと思っている。
by michikonagasaka
| 2012-07-14 15:42
| 本
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