序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2017年 01月 11日
さて、真っ先に読む数名の連載執筆陣を今回はなぜか飛ばし、適当にページを繰ってみたところ、「うんうん」と膝を打つ文章が立て続けに三つ、四つ。無知で浅学の輩がその御名も存じ上げない富原真弓さんというフランス哲学の研究者がお書きになったインドについてのエッセイが、まずは文句なく面白かった。書かれている内容や文体に好感が持てたのはもちろんだが、たぶん、この方を人間として私は好きだろうなあという感想を抱いたことも大きかった。
「作品」と「作者」は別物で、作者がどんなサイテーな人間でも、あるいは対面してみたところ、ひどくつまらなかったり、家庭人、社会人、隣人、友人として全然うまく機能しないタイプの人であったとしても、その作品に見るべきものがあれば、それでいいんだ、いや、そもそも作品と作者は切り離して考えるべきだ、という考え方は古来、広く支持されているし、もともとは私もどちらかというとそっち側に与する読者ではある。とはいえ、その人の人間そのものが、小さな文章の隅々にまで現れていて、そこに共感や親しみを抱けるというのは、これはやはり幸福な読書体験には違いない。一緒にお酒を飲んでおしゃべりしたいな、と思わせる書き手は、ヴァーチャルな友達のようなものだし、良い友達というのは、間違いなく人生の宝物なので、文字を通しての「魅力的な人との出会い」はやっぱり浮き浮きさせる出来事だ。 次いで、やはりお名前を存じ上げなかった近藤和彦さんというイギリス史の研究家の方が書かれた一文。こちらは、昨年のBREXITを題材に、英国の憲政の伝統について綴られているもので、私にとっては新しい知見や希望をもたらしてくれて、民主主義や多様性、寛容といった価値が揺らぎ、崩壊してしまいそうに見える昨今の世界情勢の中、とても有り難い読み物だった。 三番目、そしてもっとも大きく膝を打ったのが、高橋源一郎さんの「『読んじゃいなよ!』から『売っちゃいなよ!』へ」。これはスピーチをそのまま書き起こしたもののようだけれど、いわゆる「出版不況」「本離れ」「本が売れない」という、聞き飽きた状況に対する、彼の観察、感想、見たてがテーマになっている。 高橋さんが教鞭をとっている明治学院大学の文学部(だと思う)の学生さんたちの中で、大岡昇平、井上光晴、島尾敏雄を読んだことのある人が軒並みゼロだったり、「しんしょ(新書)って何ですか?」と質問されたり、挙げ句の果て、スタンダールという名前を誰一人知らなかったり、というような「嘘でしょう?」という事例がずらずらと列挙されるから、ああ、やっぱり、若者は本読まないんだ、と思いきや、実験的にドストエフスキーの「白痴」を読ませてみたら、「先生、ヤバいよ、面白い。ドストエフスキーって知らなかったけど、チョーいいよ」「熱いよね、あの人」「熱いよ」という感動の反響。その後、色々読ませたところ、小林秀雄だけは不評だったが、その理由はといえば、「先生、この人、なんであんなに威張ってんの?」と、こうくる。それで高橋さん、すごい、読めてるじゃないか、と感心する。 高橋さん同様、私も昔の人間なので、教養主義という呪縛にはまって大人になってきた。だから小林秀雄は偉い人だという刷り込みから入っている。ドストエフスキーを読んでないなんて恥ずかしい、というところから入っている。世界文学全集という箱の魔力や神田古本屋街というコンセプトにうっとりとなり、内心、これのどこが面白いのか、と思う「名作」は山ほどあったとしても、それはきっと自分の理解力が感性が乏しいからだ、と卑屈になる。わかったふりをする。見栄を張る。ああ、どれもこれも、身に覚えのあることばかり。それに比べ、昨今の若者には、そういう呪縛から自由なところで、実はなかなか素晴らしいリテラシーがあるのだ、と高橋さんは感じ入る。 実は、今、私自身が取り掛かっている単行本の企画に関し、編集の人が口を酸っぱくして警告してくださる。 「何しろ、近頃の読者は段落というものを読み通す気力が乏しいので、一文ごとに改行して息継ぎしないと続かないんですよ」 「あくまでわかりやすく」 「身近に感じられるように」 「文字数もぐっと抑えたほうが」などなど。 そんな風に書かなくちゃいかんのか、と、内心、私は少し気持ちが萎えないでもなかった。そんな私の気持ちを見透かしたように、彼女は言う、「いえね、クオリティを落とせっていうわけじゃないんですよ。あくまで読みやすさ、親しみやすさを、ということですから。そういう工夫が必要だというだけのことで」 少なくとも、高橋さんの見立てによれば、若い人たち、ちゃんとしたリテラシーを持っているし、逆に権威や名声といったところから自由である。面白いものであれば、彼らは喜ぶし、反応するし、深い洞察や感想を述べることだってできる。 実はその点に関しては、私も薄々、そうなんじゃないかと感じてはいた。(自分も含めた)同世代の人たちのブランドやお墨付きというものへの耐性のなさ(読み物だけでなく、音楽でも映画でも絵画でも建築でも料理でも)に比べ、むしろ、若い人たちの方がずっとしなやかに直球的に対象に向かう自由を手にしているのではないか、と。 媚びを売るということではなく、せっかくだから喜んでもらいたい、楽しんでもらいたいという一種のサービス精神は、決して恥ずべきことではなく、逆に、独りよがりや自己愛の固まりみたいな私小説体質への対抗馬として、とってもパワフルなんじゃないか。 昨年の暮れ、とあるオーストラリア人(植物学を専門にしている同世代女性)と話をしていたときのこと。Victor Hugoという文字を、彼女は発音できず、フーゴとかなんとかいうのである。 「それって誰?」 「フランスの作家だよ」 「へぇ、初耳」 普通に西側先進国の大学教育を受けた人が、ヴィクトル・ユゴーについて、作品はおろか、その名前すら知らないなんて、そんなことあり得るのか、と私はかなり驚いた。年が明けた今、だが、心を入れ替え、すっかり朝令暮改で、その驚愕をディリートする気になっている。 思えば、教養主義そのものが、我が国で旧制高校時代より綿々と続いたヨーロッパからの輸入品であり、それはアメリカに渡ればリベラルアーツという名の下で、それなりのプレスティージュとともに、今世紀まで生きながらえてきたものだから、なんとなく自明のものとして私なんかは捉えてきたところがある。けれど、もしかしたら遠いオーストラリアまではさほど浸透しなかったのかもしれない。また、ケンブリッジ大学みたいな名門校に留学しながら、教養主義的なものに全く関心を示さない、非常に実学的なシンガポール人なんかも個人的に数人、知っている。教養主義は、それが権威を振るっていた一昔前ですら、決して世界標準の出来事ではなかったのだ。 私自身は、教養主義的なものの恩恵も随分受けて、楽しいこともいっぱいあったけれど、時代は変わった。時代は変わったけれど、面白いもの、感動するもの、美しいものを求める人間の根源的な欲求みたいなものは、案外、変わらずにそこにずっとある。高橋さんもそう言っている。スマホは全員持っているけれど、それ以外のところで人はダイアローグを、感動を探し続けてもいる。それでいいじゃないの。 難しいことをごちゃごちゃいうんでなく、私自身も、一介の芸人として、自由な心で精進していきたいと思ったことでしたーーーとこういうことを、教養主義の殿堂、岩波書店の発行物から思い至るという面白さ。いや、マジで。
by michikonagasaka
| 2017-01-11 05:16
| 本
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