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2012年 03月 03日
表題の唐突さに、「どういうこと?」と首をかしげる方も多いことだろう。
日本史上最悪のバス事故といわれるこの惨事が起こった時、実は私自身、飛騨川をバスに揺られてまさに越えんというところだった。昭和43年8月。私は6歳。名古屋の大学で教えていた父が、「部長」をつとめていた大学オーケーストラの合宿が、お盆休み前の数日間、飛騨の山奥で行なわれ、私は父に連れられて、お邪魔虫としてその合宿に参加していた。その事故の日は、ちょうど合宿の最終日で、荷物をまとめた大学生のお兄さんお姉さんたちと共に、父と私もまた、観光バスに乗り込んで名古屋へと戻る途中だった。 台風の影響で前日は大雨。その日も朝からパッとしないぐずついた天気だった。それでも昼あたりには雨も上がり、注意報も出ていたようだが一行は「帰りましょう」という判断をしたのだろう。いかんせん、6歳の子供だった私の記憶は非常にあいまいなものでしかないが、ともかく無事に名古屋に帰り着いたとき、ものすごく大げさな感じで出迎えを受け、「よくご無事で」というようなコメントがそれこそ嵐のように降り注いできた・・・・ようなおぼろげな印象が残っている。 子供心にも「どうやら危機一髪のところでわたしたちは助かったらしい」という状況を理解し、そして周りの緊迫した雰囲気のもたらす強い印象が、心のどこかにきりりと刻まれたまま、残りの夏休みは過ぎていき、そして二学期がはじまった。 車窓に打ち付ける雨粒と共にもう一つ、私の記憶にきりりと刻まれたものがある。それが表題にあるタンホイザー。毎日、宿泊所のホールでお兄さん、お姉さんたちは音楽監督の先生(父のほかに、そういう専門家がちゃんと来ていた)の指揮のもと、ワーグナーのタンホイザーの大行進曲を練習していた。いや、ワーグナーだのタンホイザーだのというボキャブラリーは、もちろん当時の私には存在しておらず、ホールの端っこにテーブルや椅子がごちゃごちゃっと寄せられたあたりで、適当にくつろぎつつ、彼らの奏でる音楽を聞き、そして、指揮のおじさんが出す指示に耳を傾けたりしていた。 6歳の私には、お兄さん、お姉さんたちの演奏は、それはそれは素晴らしいものに聞こえた。 前年まで自由学園系の幼稚園に通っていた私は、学園の「音感教育重視」のポリシーを反映し、園児全員参加の「合奏」というものをやらされていた。園児たちは好き嫌い、うまい下手にかかわらず、「全員、ピアノのレッスンを受けること」を義務づけられ、さらに「音感」という名で呼ばれていた、要するにリトミックとソルフェージュのミックスされたようなものも週一回、受けることになっていたが、「合奏」はそうした音感教育の一環として、採用されていたのだった。たった5歳や6歳とはいえ、一斉スタートではじめたピアノや音感のお稽古にも、飲み込みの早さには明らかに差が出るもので、「うまい子」「下手な子」の差というのが、如実に暴露されるのが、この合奏における「楽器の割り振り」というセレクションプロセスであった。「うまい子」は、シロフォンとかピアニカといった鍵盤系の楽器を割り当てられ、「真ん中へんの子」は、かっこー笛とか、トライアングル、そして「下手な子」たちにはカスタネットとかタンバリンなどがあてがわれた。「おもちゃのシンフォニー」(モーツァルト)といった曲を園児用に簡単に編曲されたものを私たちは毎週練習し、年度末の発表会で父兄を前に演奏したのだった。 オーケストラといえば、自分たちの「合奏」くらいがとりあえずはわかりやすい身近な例だったため、この飛騨での合宿で目の当たりにした「大人のオーケストラ」とは、これまたなんと、私たちのものとは違って上手なんだろう、と、私は目を丸くして感心していた。なのに指揮の先生は、何度も何度もやり直しをさせる。「こんなに上手なのに、ずいぶん厳しいんだね、あの先生は」と、驚きを口にし、父は「そうだね、ずいぶんおっかないね」と私に話を合わせてくれていた。 プルーストのマドレーヌではないけれど、以来、私はタンホイザーのマーチを(それがタンホイザーという名前とも知らないまま)耳にすると、6歳の夏にトランスすることができるようになった。それは、あの「うっとりするほど上手(だと思った)お兄さんとお姉さんたち」の弦楽器の弓使いのイメージだったり、足の届かない椅子に腰掛けて、所在なげに足をぶらぶらさせていた自分の面影だったり、まだ若くて髪もふさふさしていた父のことだったり、そして、飛騨川バス転落事故を大々的に報道していたその晩のテレビニュースだったり。 いや、もっと正確にいうならば、トランス状態に入るためにはタンホイザーを実際に耳にする必要すらなかった。タンホイザーなんてものを全然知らないまま、けれど、その音楽は私の脳裏にずっとずっとこびりついて離れなかった。「飛騨」と聞くと、ひとりでに主題の旋律(たぶん、おっかない指揮のおじさんが何度も繰り返させていたところだったのだろう)が口をついて出てくる。それが脳のどこかで高らかに鳴り響きはじめ、そうして私は飛騨のバス事故の映像のほうへ、あっという間にワープするのだ。 「ところで、この曲は一体なんなんだろう」ということを、はじめて自覚的に問うたのは30歳、いや、40歳を過ぎてからのことだったか。頭出しクイズじゃないけれど、この曲、この曲、と知っていても題名がわからない場合、いったいどうやって調べたらいいんだろう。しかも私が覚えているのは印象的なテーマのところだけで、実際、曲ので出しが本当はどうなっているのかもわからない。そんなある日、音楽好きの友人に「ねえ、この曲って何かわかる?」といって、覚えている節を歌ったら、彼女、しばらくして「ワーグナーだと思うよ」と答えた。ピンポーン。数十年の疑問が氷塊し、やっと、やっとのことで私はタンホイザーにたどり着いた。その頃までには、ワーグナーという作曲家の「政治的な意味」「ナチスとの関係」みたいなことも、なんとなく知っている程度には大人になっていた。 大昔のことを突然、思い出したのは、現在入院中の父と、おそらくはもう、「意味のある会話」ができないから。6歳の子供を、一体、なにを思って大学生のオケの合宿に父は連れて行こうと思い立ったのだろうか。合宿期間中、私はちゃんとおりこうにしていたのだろうか。リハーサルのお邪魔になるようなことはしていなかったのだろうか。バスでお隣同士に座った父とは一体、どんなことを話しながら帰ってきたのだろうか。 一介の商人の息子だった父は、もちろん音楽教育というようなものは受けておらず、家の二階に下宿していた東大の学生さんの薫陶を受けたり、後に留学したアメリカでの体験などを経ることによって、「ほ―、世の中にはこういう素敵なものがあるのか」というふうに、西洋映画や西洋音楽、西洋料理などを自力で発見してきた人だった。シューベルトの冬の旅が好きでレコードを買ってきて、それをよく口ずさんでいたけれど、子供の私からみても「音程合ってませんけど」というくらい、調子っぱずれにしか歌えていなかった。小林秀雄が書いたモーツァルト論とか、フルトベングラーの伝記なんかが、書棚の一角には並んでいたけれど、生涯、楽譜は読めるようにならなかった。そんな父が、「音楽部の部長」というポジションにつくこと自体、驚きというか、「そんな無茶な」という状況なのだが、父には自分の手の届かない西洋音楽という深海へのロマンチックな憧れがあったんだろうなあと今にして思う。子供たちには「ぜひとも音楽を」といって、全員に小さいうちから楽器を習わせたのも、そんな父の可愛い夢の実現第一歩だったのかもしれない。 あれもこれも聞いておきたかったな、と思うけれど、それもかなわぬ今頃になって、飛騨川バス転落事故とタンホイザーがぐるぐる旋回しながら私の意識の内と外にたむろし続けている。人の記憶や連想のメカニズム、その不思議に身をゆだねながら、来し方に思いを馳せる。こういう心の状態を文学的といわずして、なんと呼んだらいいのか、今の私にはよい言葉がみつからない。 2012年 02月 13日
住む土地に対して、ことのほか強い思い入れを注がずにいられない人と、案外、こだわりなくフレキシブルでいられる人とがいるとしたら、私は間違いなく前者である。
生まれ育った町を除けば、スイスのチューリッヒで暮らした年月が人生でもっとも長くなってしまったことは、誰よりも本人がもっとも驚いている。ここまで滞在が長引くと「住めば都」の側面はさすがに否めず、この土地で私は多くの人と出会い、大切な友人もでき、そして子供たちのジグザグの成長過程のもっともインテンシブな時期とここで向き合ってきた。町中の裏道抜け道にも通じ、大した数のない「マシなレストラン」も大方試し、日常の買い物や信頼できるお医者さんの見取り図もすっかり整って、ここは紛れもなく私が生活人として根を張っている土地である。 けれど、私はこの町そのものに対しては、相変わらず無関心で、ことさらの愛着も抱けないままの状態。かつて、京都をパリをインテンシブに、それこそ我を失うような仕方で愛したのとは実に大違いなのである。 パリを離れて15年にもなれば、かつて親しくしていた人との縁も薄れ、町の風景も変化し、昔のような「私の庭」感覚は確かに乏しくなっている。新しい店にまったく明るくないので、訪れるのは見知った古株ばかりだし、晩ご飯を一緒に食べよう、さて、誰に連絡しようかなと思ったとき、咄嗟に浮かぶ顔もそんなにたくさんない。個人的なつながり、という意味でいえば、今やスイスこそがもっとも濃厚なのであり、パリは旅行者みたいな感覚でしかない。 にもかかわらず、スイスに対して強いパッションを抱けないままというのはなかなか残念なことなのだが、そのからくりが、先日出張で訪れたパリのホテルで、天井をにらみながら突然見えてしまったのだ。 スイスには個人的に大切に思う人がたくさんいる。その人たちのために、私はこの土地に住んでいるといっても過言ではなく、それは逆にいえば、もし、親しい人たちが誰もいなくなってしまったならば、私はここに二度と舞い戻ってくることはないだろうな、と断言できるという意味でもある。それに対し、今や親しい人がさほどいるわけでもないパリに性懲りもなく舞い戻っていくのは、それはやはり土地そのものの引力に強く引かれるからなのだ。「現存の人、生身の人間VS土地そのものの力」—―ああ、そういうことだったのか、と、いろいろなことが急にはっきり見えてきた。 「安全、清潔、よく機能している、豊か」という理由だけで、その土地に夢中になったりその土地をいとおしく思ったりするなんてことは、私にはできない。逆に、個人的に存じ上げているわけではない(そりゃそうだ)にもかかわらず、かつてそこにマリー・アントワネットが、ピカソが、ヘミングウェイが、サンローランが、ショパンが、そして高級娼婦たちや飲んだくれたち、ブルジョワマダムたちや身勝手な男たちが生きていた、という事実は強烈である。そうした人々の総体がつくりだす土地のスピリット、そうした人々を懐に抱きながら綿々と存続してきた土地の吸引力というものは、個人的なお友達がそこに一人もいなかったとしても、その土地と自分とを強く強く結びつけるのに充分だからである。 サンジェルマンのお蕎麦屋さんで初老のご夫妻と隣合わせになった。二人であれこれいいながらメニューを研究していたが、男性のほうが、意を決した口ぶりで「よっし、僕はほら、このアナマキっていうのにしよう」というのが耳に入ってきた。「穴巻きとはなんぞや? 」と手元のメニューでこっそり確認して、それが「花巻蕎麦」のことであることがすぐにわかって私は一人、お腹の中で吹き出していた。この店の常連であるらしい男性が、蕎麦についての蘊蓄を相手の女性に語っているのを聞くのもなんだか楽しく、そのとき私は一人だったけれどちっとも退屈することなく、まるで旧知の友人と食卓を囲んでいるかのような気がしたものだった。ピカソやサンローランとはまた違った意味で、こうした日常のシーンもまた、土地の吸引力の一端をになっていることをはからずも実感した体験だった。 そんなパリ滞在中、チューリッヒの友人からひょっこりSMSが届いた。「住めば都になるかもしれないチューリッヒに、元気に戻ってね。待ってます!」——— この土地に対する私の煮え切らないスタンスを充分わかってくれた上でのこのメッセージを、私はものすごくありがたいものとして受け取った。「そうだね、あなたがそこにいてくれる限り、私はちゃんとお家に戻っていくわ」 折しもパリへ発つ直前、チューリッヒで催した私と夫のささやかな合同お誕生パーティの集まりに、親しい友人たちがたくさん駆けつけてくれ、それはそれは思い出深い一夜を過ごしたばかりだった。特に興味のない土地ではあるけれど(と、断言してしまおう)、この人たちがいる限り、ここはやはり大切なところなのだという実感があった。住めば都とは、なるほどそういう意味だったのかもしれない。 2011年 10月 14日
娘の通う学校(フレンチ・リセ)の標語は
"Dans la vie rien n'est à craindre, tout est à comprendre". というもの。キュリー夫人の言葉だそうだが、これを適当に訳せば 人生に恐れるものはない。すべては理解すればいいことなのだ。 というような感じ? さすが明晰さを重んじるデカルトの国(我思う、故に我あり)。そしてさすがは科学者の言葉、と、一応は感心する。けれど、フランス人でも科学者でもない私としては、「そんな〜、あり得ない」という気持ちが圧倒的に勝ってしまう。 まず第一に、人生は怖いことがいっぱい。そして第二に、理解できないことばかり、というのが私自身の世界認識であり、人間観でもあるから。 ![]() 近頃、「怒らないこと」という本を読んだ。スリランカ初期仏教の長老アルボムッレ・スマナサーラさんが書き、すごいベストセラーになっている本らしい。だいたい、ベストセラーときいただけで回れ右をしがちな天の邪鬼ではあるのだが、昨夏、帰国したときに本屋さんの店頭で平積みになっている同書に、なぜか引き寄せられるようにして、気づいたら手にとり、思わずレジに突き進んでいた私。夏のあの頃、私自身、身辺の困難ごとがいろいろあって、心が大いに弱っていたということもあったかもしれない。「本に救いを」という思いで、本屋さんをクルージングしているときというのは、やはり「救いにつながりそうなもの」にピピッと反応するもので、心が元気なときとはちょっと異なるフィルタリングを絶対にしているからだ。 仏教において「怒り」とは何か、というところからひも解いて、だから「怒らないことがよいことである」というシンプルな結論を導く本書は、だが、いわゆるコーチング的なものでは決してない。あくまで仏教の教えに依拠したお話であり、「人生=苦」という大前提、「すべて=無常」という大前提のうえに乗っかった、非常にまじめなお話である。 だがこれが、妙に心に響くのである。目からウロコ、というようなこと、疑り深い私にはめったのことでは起こらないのだが、今回は、目からウロコだらけである。 クリスチャンの家庭に生まれ、幼児洗礼を受け、大学では西洋哲学(しかも中世スコラ哲学ですから!)を勉強し、その後、二十代後半からはずっと欧米暮らしを続けてきたものとして、遅ればせながら、この仏教的世界観というものが、ものすごくものすごく新鮮で開眼することしきりなのである。デカルト的明晰さをこそ信奉してきたはずだったし、日本語における曖昧さの側面をどこか煙ったくじれったいものとして感じ続けてきた人生だったにもかかわらず、今、なんだか私、ちょっと仏教モードなのだ。 キリスト教でも、右のほほをたたかれたら左のほほを差し出せ、というようなことを言う。イエスはけっして怒りん坊ではなかった。けれど、決してなくなることのない戦争、殺戮、口角泡飛ばして互いをやじりののしる政界、財界、その他、世界のどこを切り取ってみても、人々は怒ってばかりいる。 この世には説明不可能なこと山積みである。解決不能なことも山積みである。ほんの小さな我が身ひとつとってみても、まさにそのとおり。そうであれば、今ここで、「解決しようと躍起になる」ばかりでなく、少し、あるがままに任せるという態度でのぞんでみてもいいかもしれない、と、思い始めている。こうして文章にしてみれば、たいしたことに聞こえないかもしれないが、これ、私という人間のたどってきた精神的軌跡からすれば、かなり画期的なことである。 Dans la vie tout est flou. Tout n'est justement pas à cpmprendre. Et c'est OK ainsi. キュリー夫人の向こうをはって、このように高らかに宣言してみたいところだ。(人生は曖昧だらけ。理解できないこと、たくさんあるけど、それでオッケーとする) 怒らない、怒らない。 上記の本読了後以来(ということはわずか2日だけど)、一応、私も修行モードに入り、怒らないようにしている。いや、本書によれば、怒らないようにと必死に我慢することが目的ではない。自分の中の怒りの発生過程を理解し、認識することによって、少しずつ「怒らない自分」になっていくことこそが意味あることなのだ。う〜ん、とても難しそうだが、やってみる価値、ありそうだ。 2011年 02月 14日
昨日、スイスではいくつかの案件での国民投票が行われた。その中で、今回もっとも大きな話題になったのが、武器の個人所有に関するもの。国民皆兵制(男子のみ)のスイスでは、兵役についたときに支給される銃はそのまま個人が保管してもいいことになっており、実はものすごい割合で「一家に一丁」が定着している国なのである。
国内で起こる殺人事件や自殺のうち、この「自宅の銃」を用いたものの割合が非常に高いことなどから、この制度を規制し、各自の銃の個人保管を禁止する法律を制定するイニシアティブが、今回の投票にかけられたのだ。 下馬評としては、今回は政治的な左右の違いを乗り越え、「女性の連帯」が案外力強く作用して可決につながるのでは、との見方がわりと濃厚だった。(政治的には、このイニシアティブはもちろん左派から出ており、右派政党は反対の立場を表明) ところが、ふたを開けてみたらば、56%で反対派が勝利。結局、銃保持規制法は成立ならず、現状のママ、誰もが好きなように自宅で銃を保持できる状態が維持されることに。そして、この手の国民投票が行われるたびに露呈されるフランス語圏とドイツ語圏の差、都市部と田舎の差は、またまた明らかすぎるほど明らかだった。 つまり、州別の結果をみると、銃規制賛成票の多い順に 1 ジュネーブ 2 バーゼル 3 ヴォー 4 ヌシャテル 5 ジュラ 逆に、銃規制反対票の多かったのは、 1 アッペンツェル 2 オプヴァルデン 3 シュヴィッツ 4 アルトドルフ 5 グラリス フランス語圏はおおむね「銃はけしからん」 ドイツ語圏はおおむね「銃は古き良き伝統」 という図式になっているわけだが、 これに加え、都市部(チューリッヒ市、バーゼル市、ベルン市、ルツェルン氏など)は、ドイツ語圏でものきなみ銃規制賛成であるのに対し、地方(ドイツ語圏)はのきなみ、圧倒的に反対票が多かった。ちなみに、銃規制反対のトップに躍り出たのはシュヴィッツ洲。スイス一、低い税金(スイスは税率が州によって違う)であることから、お金持ちがたくさん住んでいる州であり、またハイジの作者、ヨハンナ・シュピリの生まれ故郷でもある(って、これは余談だけど)。 ものすごく乱暴な比較をするならば、アメリカにおける共和党と民主党の支持層の違いと、かなりパラレルな傾向がスイスにおいても見られるわけだが、スイスの場合、ドイツ語圏のほうが人口が多いということもあり、総合得票ということになると、どうしてもドイツ語圏の結果がそのまま国全体の結果ということになってしまう。 お隣近所、みんな銃を家に持ってるのかと思うと、なんだかぞっとするけれど、「で、そのどこが悪い?」と開き直られると、ますますぞっとする。私が住んでいるチューリッヒ市は34.6パーセントが反対票で、これが州となると49.6パーセントだったから、なんとかぎりぎり「銃保持はけしからん」という立場だったが、反対上位15州ほどは、いずれも60パーセント以上(うち、トップ四州は70パーセント以上)の州民が「銃もっててもオッケーでしょ」という判断を下している。 先のイスラム教のモスクの尖塔建立を禁止する法律が通ってしまったときも(これは国際的にもかなりバッシングを受けた)、票の分布は今回とそっくりだった。伝統とスイス的なるものをしっかり守り、外からやってくるバイキン、邪悪なもの、異質なものはなるべく閉め出す方向で、という国民性が(とりわけ地方においては)驚くほど根強い。そういう土地に住み続けるのは、私にはやはり少々辛いのである。 2011年 02月 12日
私もここしばらく、エジプト情勢を注視していた一人。twitterやオンラインメディアを通し、何度も「いよいよ辞任」というニュースが飛び込んできたが、そのたびにガセネタ、ということが続いていた矢先だったから、このたびの「本当の辞任」ニュースは、まずはめでたいことといえるだろう。
その上で、疑問が二つ。 ①ムバラクの辞任直後、スイス連邦当局は、彼とその家族、親族、とりまきのスイス内銀行口座を凍結することを宣言。チュニジア大統領のときもまったく同じことが起こったわけだが、「国民から不当に搾取された私有財産を、正当な持ち主に返還するため」と、当局はその理由を説明する。不当に搾取した私有財産は、でも、当人が権力の座にある限りはスイスの銀行で安全に保管、運用してあげるのはオッケーで、その座から降りるや否や、そのお金の処遇が問題となるという点が、こういう問題に今ひとつ明るくない私には、どうにも納得がいかない。だって、不当なお金は、彼がどんなポジションにあろうが不当なことには変わりないわけでしょうに。今、世界に多数存在する独裁者、腐敗政権を担う者たちとその取り巻き、いやそれどころか、民主国家の為政者たちの私有財産の多くがスイスの銀行口座にあることは、誰もが知ってるオフィシャルな事実。それが凍結されるかされないかの境目は、どのあたりにあるのだろうか。小国スイスの存続がかかった大きなイシューだ。 そういえば、少し前、スイスにはテロ攻撃は起こらない、という説もよく耳にした。 「なぜなら、彼らはみんなスイスに口座持ってるから」 というのがその理由。 安全はお金で買いましょう。国の繁栄は、世界の富裕層のお金で築きましょう。 したたかな国であることよ、と舌を巻かずにはいられない! ②もう一つの疑問。それは彼の年齢。ウィキペディアによると、ムバラクは1928年5月生まれとある。ということは現在82歳ということ。それで、あのつるつるの顔と豊かな黒髪というのは、いかにして??? 彼の引退が西欧メディアで取りざたされていた一週間ほど前、彼の誇りを傷つけることのないスムースな引退のシナリオとして、ドイツへの亡命という説がささやかれていた。なんでも彼の主治医はみんなドイツにいるんだそうで、「健康上の理由」ということで、こっそりドイツに亡命させることで、メンツも立ち、退任しやすいのではないかというシナリオだった。映像に登場する、つるつる顔に目が釘付けになりつつ、美容整形の主治医もきっとドイツにいるんだろうな(あれ、こっちはスイスじゃないのかな)と確信しつつ、それにしても世界の為政者の多くがどう考えてもリフティングしすぎでは、という状況にも思いがいってしまうのをとめることができない。ベルルスコーにをみてごらんなさい! 管さんも、このところ大変お疲れのようだし、少しリフティングをなさったらいかがかしら、と、また余計なことを考えてしまった(昔、取材で訪れた、とあるスイスの高級エステクリニックでは、顧客リストの中に、ゴルバチョフ氏が入っていました)。 私のささやかな疑問はともかく、エジプトの明るい未来を応援しつつ、この波が他の国々(I, C, NKなどなど)にも、当局のセンサーシップをかいくぐってなんとか伝播することを、無邪気に願っている今日この頃。 2011年 01月 12日
近頃の日本の雑誌には、やたら付録付きというのが多い。
付録目当てで雑誌を買う人も多いんだそうで(極端な話、付録だけ手に入れたら、雑誌は読まずに捨てる、とか)。読まずに捨てられてもいい、とにかく買ってもらえれば、というのが作り手側の本音だったりするんだろうか。えらく成り下がったものだ、と、ただただ驚く。 ネットなんてものがない時代に雑誌編集の仕事をしていた私には、このような傾向がまったく理解できず、なんで、なんで??? と、浦島太郎の心境だ。 これだけ物があふれている時代、またこれだけ物を入手する方法が多様化している時代、それでもなお、何かをそこまでして欲しがる、しかもその何か、というのが、ブランドのロゴが入ったポーチだったり、リミテッドエディションのノートだったり、と、まあはっきりいってどうでもいいようなジャンクなものであるわけだから、その気持ち、想像しようにも理解しようにも不可能だ。 まあ中にはとっておきのレシピ集など、あってもいいかな、と思えるようなものもないわけではない。しかし、「おまけ」につられて、という発想そのものは、子供時代のキャラメルとか、「学研の科学」「小学一年生」と完全に同一。「どうせ食べもしないのに(読みもしないのに)おまけにつられて買うなんてもったいない」と、親に小言を言われたのは、決して私だけではないはず。 以前、「スポンサーの言いなり」「スポンサーの顔色をうかがいながら企画内容も決める」昨今の雑誌作りの状況にこの欄で文句をたれたことがあったが、おまけ攻勢も大きくくくればこの流れの延長線上にあるわけで、それ自体はとりたてて驚くほどのことでもない。ただ、こんな状況下にある今どきの雑誌業界で働いている人たちをちょっと気の毒に思うのだ(よけいなお世話かもしれないけど)。つまんなくないのかな。いやにならないのかな。生活のために我慢してるのかな。不感症状態に敢えて自分をもっていくことで適当にやり過ごしてるのかな・・・・・などなどと、それこそよけいなお世話の深読みを、ついついしてしまうのである。 2010年 02月 15日
![]() 数日前のFT(ファイナンシャル・タイムズ)に How Toyota engineered its own downfall と題された記事が載っていた。その内容もさることながら、私にとってもっとも衝撃的だったのは、冒頭に引用された豊田社長の記者会見での発言。外国プレス向きの記者会見で氏が語った言葉を、新聞の記事からそのまま抜粋するならば Believe me, Toyota's car is safety. But we will try to increase our product better 記者は、「普通であれば、誰かの英語の下手さをからかったりすることは、決して許されないことだ」と前置きした上で、「しかしながら、アメリカでMBAを取得した豊田氏が、完璧な英語の謝罪文をたたきこまれていなかった、という事実そのものが、今回のリコール問題に対するトヨタの”二流の”対応を雄弁に物語っている」と書いている。 たまたま私はスイスに住んでいるので、主に金融関係の日本のビジネスマンはけっこうたくさん知っている。しかし、その多くの人が、まずは痛々しいほどに英語が不得手で、しかも、いや、それがゆえに、世界の事情にあまりに疎いことに、暗澹たる気持ちになることがしばしばある。世界の事情に疎いというのは、なにも政治情勢とか金融システムといったことばかりとは限らず、グローバル化が進んだ現在の世界における、ビジネス上の共通認識とか、プロトコールといったことをも全部ひっくるめた「疎さ」である。 日本のこうした状況を、国内では「日本列島ガラパゴス化」みたいな表現で指摘する向きもあるが、巷に指摘されている以上に、問題は根深いということを、たとえば今回のトヨタ事件は非常によく象徴していると思う。 かつて高度成長期には、メイドインジャパンの製品は、その質の高さ(最初は粗悪のコピーだったのが、頑張って改良を続けたおかげで、質の高さを誇ることがいつしか普通になっていた)と、低価格によって、まさに世界を席巻した。「うなずくばかりで、なにをいっているのかよくわからない営業マン」とか、「イエスといったくせに、本当はノーを意味していたらしい手ごわい交渉相手」といった評によく表れているように、相手国のビジネスマンがお手上げ状態になる、それこそ問答無用・カミカゼ突撃隊的戦略で、なんとか世界に市場を開拓したまではよかったが、その後のバブル崩壊以降、日本はどんどん世界の潮流からはずれ、遠海を一人いかだで漂ってるような存在に成り果ててしまった。そうこうするうちに、かつてはアジア一人勝ち状態だったのが、中国、韓国、シンガポールなどに多くの分野で追いつかれ、そして追い抜かれ、ふと気づいたら、「あれ?」というポジションに。 問題の根源の一つは、いまさらながら英語であると、つくづく思う。水村美苗の「日本語が滅びるとき」に書かれる英語帝国主義の中での日本語、日本文学の存続の危機という視点にはひたすら共感する私だが、それはなにも、英語ができないままでもオッケーということとは全然違う。かつて、私が留学した80年代のフランスでは、英語をしゃべる人はまだ非常にまれで、「話せてもあえて話さないフランス人」という嘘か真かわからぬ評判もかなり幅を利かせていた。しかし、今どきのフランス人、それもちょっとしたビジネス業界でそこそこのポジションにある人で、英語で仕事が出来ない人などほとんどいない。中国人だって、韓国人だって、そりゃ発音などはひどい場合もあるが、それでも彼らは世界のどこへでも出かけていって英語で話をつけてくる。アメリカのアイビーリーグ系大学など、今や中国や韓国などからの優秀な留学生抜きにはそのキャンパス風景が成り立たないほどでもある。 日本が必要とする英語とは、巻き舌多様のオウムの口まね的雰囲気イングリッシュなどではなく、それを使って意味ある内容を話し、読み、書く力。発音なんてどうでもいい。でも構文はちゃんとしてなくちゃいけないし、論の組み立てもちゃんとしてなくちゃいけない。お子様のイングリッシュスクールは、その意味ではなんの解決法にもなっていない。中高生のお受験英語も、ないよりはましだろうが、大した役にはたっていない。むしろ大学生や大学院生こそ、論文を読み、そして自らも論文を書き、そして学会で発表し、といった「本当の勉強を通じた英語の取得」に励んでもらいたいし、大学のシステムもまた、そうした方向でのサポートをするべきだと思う。理数系だけでなく、むしろ社会科学系の学生たちにこそ、この分野をうんとうんと強化してもらいたい。 「日本株式会社」自体は、GNPその他の指標のどれをとっても、本当の意味での世界一になったことはない。でもトヨタは違った。トヨタは本当に世界一のカーメーカーに、ともかくはなったのである。ガラパゴス・ニッポンにおける、数少ない頼みの綱、世界のトヨタは、日本そのものを両肩に背負う巨大な組織である。だからなおさらのこと、今回の失態(別にトヨタ社長のお粗末な英語という点に限らず、リコール問題への対応そのものという失態だが)は痛く、悲しい。 それともう一つ、日本がルーザーに成り果てている理由の一つに、外国からの投資をちっとも呼び込もうとしない、そういう鎖国的な状況がある。ビジネスのど素人の私がとやかくいうのも気が引けるが、日本は海外から投資しようとしている人にとっては、あまりにハードルが高すぎるのである。それは言葉のハードルであったり、文化的なハードルであったりすると同時に、役所が課すロジスティックなハードルでもあり、とにかく支社一つ立ち上げるにも、銀行口座一つ開けるにも、駐在員を送り込むにも、制限が「世界スタンダード」を大幅に超える仕方であっちにこっちに立ちはだかっているのである。 ・・・・と、こういうことをあれこれ考えていると、非常に気持ちが暗くなってくる。 「スイスでは、こういうふうにやっておりますから」 そんなふうに煙に巻くだけで 「ほほう、そうですか」 と感心しちゃうような世界ボケビジネスマンに国を任せておいちゃだめだ。 もちろん、中国に一族郎党連れていって要人と全員に握手させるような土建屋的メンタリティの「外交」で悦にいってるような政治家に国をまかせおくのもだめだ。 でも、じゃあどうすれば・・・。それは私にもわかんない。 2009年 12月 15日
フランス語圏スイスの新聞Le Tempsの本日の記事より。
まあ、ともかくこれをご覧いただきたい。 フランス語がわからない方でも、この記事がどんな方向のものなのかはなんとなく想像がつくかと思う。実際、私も記事を一目見た瞬間、「ひえ~、またやってくれたかニッポン!」と、誇らしさと恥ずかしさ半々(うそ)の思いに舞い上がったが、よ~く記事を読んでみると、これはフランスのリベラシオンという日刊紙のジャーナリストがこのたび上梓した「108の愛欲グッズ」という本の紹介記事であることが判明。どうやら著者のAgnès Giard さんは、長年来の日本愛好家(多いですね、フランスには)らしく、これはその彼女の日本への愛が本という姿になって表現されたとものというべきか。 煩悩(=désir)と、広義の欲望、欲(=désir)。そうか、フランス語ではどっちもdésirでオッケーなんだな。なんかおおざっぱな言葉だな、などと思いながら記事を読み進める。 へ~、こんなのもあるんだ、すごいなぁと感心するようなグッズがカラフルな写真つきで次々紹介される。どう使ったらいいのかよくわからないものもあるし、これはエグい、とうなる商品もある。思わず買っちゃおうかとそそられる(うそ)ものもある。 こうしたグッズの中には「新発売されたと思ったら6ヶ月後にはすでに市場から消えているもの」(日本人は新発売というコンセプトが大好き、との補足説明あり)から、「ラブホテルなどに古くから常設されているタイプで、すでに6億個も売れたというロングセラーもの」までさまざまだが、いずれにせよ、こうした愛欲グッズは、この記事によれば「本の中では少しも下品な様相を呈しておらず」「それは日本の長い伝統、アニミズム的神道と仏教が渾然一体となったその宗教観、そして日本人の美意識が凝縮されたもの」なんだそう。 もちろん本のタイトルの108は、仏教の煩悩の数をパロッっており、記事中では大晦日に除夜の鐘をなぜ108回つくのか、なんていう説明まで丁寧にしてくれている。単なるエロ系オモチャの集合を、こんなふうに高尚な「文化」「伝統」表現としてとらえていただけて、光栄といおうか、恐縮といおうか・・・。フランス人にはホント、感謝しなくちゃな、と衿を正したくなるところだ。 ネットでなくて紙の新聞のほうにはもっともっと写真がたくさん載っていたのをここでご紹介できないのが残念! 2009年 10月 10日
日本でこのことがどのくらい話題になっているか、遠くに住む私にはよくわからない。
フランスはもとより、私の住むスイスでもきのうはあっちこっちでこのニュースを目にし、耳にした。 ニュースとは、ほかでもない、フランスの文化大臣フレデリック・ミッテラン氏(故ミッテラン大統領の甥)が2005年に出版した、自伝的(でもはっきり”自伝”とはどこにも書いてない)書物"la mauvaise vie"の中に、氏がタイやインドネシアで男性相手のセックス買春をした体験をつづる箇所が、今頃になって急に攻撃され、けれどそれを受けて彼は「辞任する意図はまったくない」旨を宣言したこと。フランスのTVチャンネルTF1のインタビューにも登場し、弁明をしたばかりだ。 実は私、このミッテラン氏とモナコでお茶したことがある(!)。 といっても、もちろん私は彼のお友達でもなんでもなく、ある日本の雑誌の仕事で彼に取材をしたのだった。ミニバイクを自分で運転し、リュックサック姿で登場されたのには驚いたが、昔からテレビでお馴染みの、とても雄弁で礼儀正しいけれど、ちょっとアイロニカルなその話し方は、ライブでもまったく同じ。そのときはモナコの故グレース王妃に関する取材だったけれど、映画評論家として長く活躍してきた彼の「グレース観」は、なかなか深く鋭いもので、それを選び抜かれた言葉を駆使して語るわけだから、それはもう説得力があるなんてもんではない。 当時私はジュネーブに住んでいたが、「ああ、ジュネーブだったら僕の弟(だったかいとこだったか?)がやってるギャラリーがあるから遊びにいくといい」というような話もあった(ちなみにそのギャラリーは、ジュネーブの旧市街にあって、超有名)。 かつてミッテラン大統領に隠し子がいた、という話題で盛り上がったときがあったが、だからといって彼の政治家生命に影響があったかといえば、そんなことは全然なかった。サルコジ大統領が、前の奥さんと別れた直後にカルラと結婚したときも、それはあくまで「プライベートなことだから」と、誰もなにも言わなかった(パパラッチは大喜びだったけど)。クリントン&モニカ事件の扱われ方との違い、という視点で指摘されることの多い事例であり、「さすが、フランスは大人の国」みたいなコメントと共に紹介されるのが普通だ。 今回、TF1での釈明会見では氏が犯罪行為とされるペドフィル(小児性愛)行為をしたか、セックスツーリズムに消費者として加担をしたか、という点が焦点の一つになっているが、番組上では氏は、この点をきっぱりと「否定」している。インタビュアーが「でも、相手の男の子が未成年だったって、どうやってわかるんですか?」と突っ込んだが、「相手は、いつも自分と同じ年くらい、まあ5歳くらい若いというのはあっただろうが、断じて子供ではなかった」といった答えでかわしていた。そして「私は、ペドフィルを、そしてセックスツーリズムを断固として弾劾するものであり、また、文化大臣の辞任はあり得ない」と明言。 アメリカで、トップクラスの政治家にこんなことがあったら、その人は即刻、辞任だろうな~。日本だったらどうなのかな~、やっぱり辞任だろうな~、ワイドショーとか週刊誌もその話題ばっかりになるだろうな~と、「いわゆる大人の国、フランス」との決定的な違いに思いを至らせた。どっちがいいとか、悪いとか、ではなくて、まあ好みの問題だな。 2009年 06月 27日
一昨晩、友だちとご飯を食べていて、どうした経緯かファラ・フォーセットの話になった。
顔を揃えた友だちの世代から、当然のことながら「チャーリーズ・エンジェル、かっこよかったよね~」というノスタルジー系の展開になり、そして「でも、彼女もいま、闘病で大変なんだよね」というところで、一同、「あ~あ」と、以来過ぎた時の長さにそれぞれの思いを馳せながらため息。 で、一夜明けたらいきなりマイケルジャクソンの訃報が飛び込んできた。その影ですっかりニュースバリューが落ちてしまって気の毒だったが、なんとファラもとうとう亡くなってしまった(ほんとに気の毒なくらいの片隅記事だった)。 ああ、マイケル・ジャクソン。きっと同世代の人ならば、ほとんどすべての人がその人なりの「マイケル・ジャクソンと私」ストーリーを心に秘めていることだろう。 プルーストのマドレーヌのように、マイケル・ジャクソン訃報ニュースもまた、ものすごい力で私を過去のある一点に連れ戻した。ときは1980年代末。場所はパリ。 パリ13区の、パリとよぶにはあまりに情緒にも雰囲気にも乏しいそのエリアで、私の夢のパリ生活はスタートしたのだが、ナシオンという、これまた夢も希望もない無機質な名前の地下鉄の駅から、私は毎朝、律儀に学校へ通っていた。ソニア・リキエルの黒いキルティングのトートバッグ(そういうものが当時あった)に、教科書やノート、辞書などを詰め込み、まだ暗いうちに下宿を出た。朝なのに暗くてあたりに電気がついている、というただそのことだけでも、なんとなく気が滅入ってしまう、それほどに、私はいろいろなことに不慣れだった。カルトオランジュと呼ばれていた定期券で改札を通って、薄汚い地下鉄に乗り込む毎日。そんな私の耳には、いつもウォークマン(!)のイヤフォンがあって、それが灰色のパリの町から私を束の間、遮断する役割を果たしていた。 ウォークマンから流れる曲は、来る日も来る日もまったく同じ。それがなぜかマイケル・ジャクソンだったのだ。 あのとき、地下鉄のホームに行くために駆け上がった階段(ホームは地下鉄だけど地上にあったので、階段を駆け上がったのだ)のイメージは、マイケル・ジャクソンの歌と見事にシンクロしている。なんというアルバムだったかすら覚えていないが、それを自分で、あるいは誰かがカセットにダビング(!)したものを、なぜか私はパリ移住のさいに後生大事に持ってきて、それが毎日の通学のテーマソングになっていたのだった。とりわけ、その中で今もとっさに口をついてでる曲があって、それにあわせて、左足、右足、と順に階段を登っていく(なぜか私は大昔から、一拍目はぜったい左足でないと気持ち悪い性分だし、そんなわけで階段は登るも降りるも、絶対第一歩は左足からはじめる)。その身体感覚は、今でもこわいくらいに鮮やかに記憶している。 マイケルさん(と、今日の報道ではなぜか「さんづけ」だったのが妙だった)の訃報に触れ、ああ、あの曲、あの曲、でもあれって、何の曲なんだっけ??? と急にタイトルが知りたくなった。で、you-tubeに行って調べてみたところ、それは Don't Stop 'Til You Get Enough という曲だったことが判明。 それにしてもなんでパリで、マイケル・ジャクソン??? なんといっても生まれてはじめての外国暮らし。今では偉そうにしている私も、当時は本当に毎日のすべての瞬間がおどおど、どきどきで塗り固められていた。乱暴に人を押しのけるメトロの乗客とか、車内にぬーっと登場する大きな犬とか、ストで突然止まっちゃう交通機関とか、そういうもろもろの外敵(と思われた)に対し、よろい固めをすることはサバイバルの第一条件で、それが私の場合、マイケル・ジャクソンだったのだ。 耳にイヤフォンをあてて、そこからファンキーな英語の歌が聞こえている間は、フランス的な気難しさやややこしさから束の間逃げていられるような、そんな思いもあったと思う。メトロがSt. Placide の駅に到着し、そこから階段を登って地上に出ると、私はマイケルとさよならをして、学校への道を急いだ。道路の喧騒、人々の話し声からカラスの鳴き声まで、急に外界の音が聞こえてきて、そうして私は「えい、やっ」と、外の世界に飛び込んでいった。 追)同じカセットに入っていて、プルーストのマドレーヌ効果のある曲は、ほかに I can't help it Rock with you ・・・・と、ここまでリサーチした結果、それらがいずれもOff the wallというアルバムに入ってるものということが判明。どこか(あるとしたら実家?)にこれのLPを、私、持ってるんだろうか?? < 前のページ次のページ >
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