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2012年 02月 22日
こんなときが来るとは思っていなかった・・・わけではもちろんないのだが、先手を打ってあれこれオーガナイズしておくだけの用心深さや思慮深さを持ち合わせず、その上、私は遠いスイス暮らし。多くの人が経験する「親の老後」に遠隔というさらなるハンディが加わり、そして事情はここにきていよいよ急展開。慌てふためいて、ここ数日、狂ったように情報を検索し続けている。
子の思惑と親の思惑、さらには複数、子がいればそれぞれの思惑が美しいハーモニーで合致するなどということは、もちろんあり得ない。「よかれ」と思ってすることが、相手には「余計なお世話」だったり「気が乗らないこと」だったり、という、実に平凡な葛藤に私もまた、日々、さらされている。 私がスイスでお手伝いしているケアチームジャパンという相互援助組織には、「遠距離介護」に実際的に取り組む部門があり、理念やシステムの上で、私もこれはなかなかよいのではないかと思ってきた。そのうちの一つ、ナルクスイスでは、日本のNPOナルクと提携し、スイスで貯めたポイントを日本の両親の援助のために活用する、というシステムを積極的に導入。すでに多くの方がこのシステムを利用している。 だったら私も、と思って、数年前から会員になり、ボランティア活動などを通し、ささやかながらポイントも貯めてきた。ことあるごとに「こういうものがあるから、是非、利用してね」と親にはすすめてきたが、今日に至るまで、1ポイントたりとも利用してもらっていない。両親の住む土地の地元のコーディネーターの方を紹介してもらって、そちらからコンタクトをとっていただくことまでしたけれど、当の本人、ちっとも利用してくれない。あまりしつこくいってもうるさいだろう、と私も遠慮しつつ、けれど、介護共倒れの危機に何度も直面している両親を遠くから見るのも忍びなく、さりとて、どかどかとしゃしゃり出て行くこともはばかられ、そんなかんなでずるずると年月がたってしまった。 そうこうするうちに父は入院。ずっと付き添う母も、簡易ベッドに寝起きし、売店買いの菓子パン、弁当で食いつなぎ、そして認知症の父に振り回される密室暮らしで心身共に極限状態にあることを、このたびのとんぼ返り帰国で目の当たりにし、ああ、これはよくない、本当によくない、と痛感。けれど、だからといって、「お父さんの介護はプロの方にお任せして、お母さんは自分のことももっと大切にしないと」などというアドバイスは、そうそう気軽に口にできるものではない。張り切ってあれこれ仕切るばかりが能ではないとはわかっているけれど、でもじゃあ、どうしたらいいのだろう。 病院では看護師さんたちがとてもよくしてくださるし、担当のお医者さんもなかなか出来た方という印象を受けたので、その点では安心したが、ひとたび体のほうがある程度回復してきたとしたならば、いつまでもこうして入院し続けるわけにもいかず、かといって、今のような要介護の状況でいきなり自宅で二人きりというのはいかにも心もとない(というか、実際、無理だと思う)。けれど「人の手を借りる」ということに対し、私など想像もつかないくらいに母には抵抗があるようで、そこのところが大変難しい。 年賀状やクリスマスカードにみんながにっこり笑った家族写真を掲載するという、あの流儀が、どういうわけか私は昔から苦手だった。いや、人からいただくぶんには一向に構わないというか、むしろ、写真を通してお子さんの成長ぶりなどを拝見するのはとても嬉しいことだ。けれど、自分からそれをやる、ということはついに一度も行なわないまま、この夏には上の子どもは家を出て大学生生活をはじめる年齢になってしまった。家族というものがもつ、重い側面、負の側面に全部ふたをして「幸福そのもの」という様子を外に向けて公表するという部分におそらくは居心地の悪さを感じるからこそ、写真付き年賀状には手を出さないできたのだろう。ひねくれた性分だとは思うけれど、今さら自分を大きく変えることはできないので仕方がない。18歳で家を出て下宿生活を始めて以来、遠くにありながらそれとなく気にしつつ、けれどこちらから甘えるとか頼るというようなことは可能な限り封印した形での付き合いを、私は自分の家族に対して行なってきた。これも長子の宿命、はたまた、私自身の気性のなせるわざか。 けれどできうることならば、我が家族が抱える重い側面、負の側面をも全部ひっくるめて、いびつだったり、傷つけ合うことが多かったりしながらも、なんとか仲良く助け合ってやっていきたいものだと切に思う。老いていく親、子どもみたいになってしまった父。子育て真っ最中だったり仕事の上でのチャレンジに直面して、ばたばた忙しくしている兄弟たち。そんな私たちが、もう一度、仲良く助け合えるならば、子どもみたいになってしまった父も少し安心するだろうか。安心してよく眠れるようになるだろうか。 2012年 02月 20日
今朝の新聞(Le Temps〜フランス語圏スイスの、一応代表的な日刊紙)にドビュッシーについての記事が3つも載っていた。「なんでまた、唐突に」と不思議に思いつつ、読み始めてすぐに、今年が彼の生誕150周年にあたることを知って納得がいった。
折しも現在、ドビュッシーのピアノ曲を二つ、練習しているところでもあったので、なんだかタイミングもよく、気分ものって3つの記事(といっても一つはディスコグラフィー)を一気読み。ちなみに記事は3つとも同じ記者によって書かれている。 内容とは直接関係ないことながら、この記者の文体が、なんというか、比喩とかちょっとポエジーっぽい言い回しのオンパレードなのがまずは目についた。内容とは直接関係ないと書いたけれど、考えようによっては、紹介記事そのものがドビュッシー的になっちゃっている、というふうにいえなくもない。 たとえば・・・・・・(フランス語、わからない人、読み飛ばしてください) まずはのっけからこんな出だし Si Wagner est une drogue dure, alors, Debussy est un doux opium. (ワーグナーがハードドラッグだとすれば、ドビュッシーはさしずめ甘い阿片といったところ) 次いで Il vous happe par ses climats, ses senteurs, «les sons et les parfums qui tournent dans l’air du soir», pour paraphraser l’un de ses Préludes. (ドビュッシーは、その空気、その香りで人をつかむ。そのプレリュードの題名を借りるならば、まさに“夜気に漂う音と香り”とで人をつかむのだ)※ その数行先には Il ressent plus qu’il ne sent, il suggère plus qu’il n’assène. (感覚的というよりは、感情的な人。彼は押し付けるのでなく、そっと示唆するのだ) そして Ses contemporains ont taxé sa musique d’«impressionnisme vague» – ce fameux mot qui colle à son style – alors qu’il n’y a rien de plus précis et de plus lumineux que sa pensée musicale. (同時代人からは「曖昧な印象派の音楽」と揶揄されもしたが、そしてこの有名な形容が彼のスタイルにはつきまとうことになるのだが、実際は彼の音楽的思考ほど厳密、そして光あふれるものはないのである。) というふうに賛美、 Debussy a opéré sa révolution en silence. (ドビュッシーは静かに革命を起こしてみせた) と宣言した上で、どんな革命だったかを説明―ー Il a pulvérisé les lois de l’écriture classique. Il a joué sur l’ambiguïté des fonctions tonales. Il a frôlé le monde de Schönberg (l’atonalité) sans jamais se laisser enfermer dans un système. Sa musique recèle toujours une part d’énigme quand bien même on s’y est frottée en profondeur. (古典派の流儀を粉々にし、音階の機能の曖昧さをもてあそび、シェーンベルグ的無音階の世界をほぼかすめ、かといって、一つのシステムに閉じこもることは決してなかった。彼の音楽は我々が深く掘り下げようとすると、その神秘の一端をさっと隠してしまう) 享楽的、贅沢好きの側面もあったらしい彼の人となりを、 Mondain dans l’âme, révolté dans les actes. (社交的、行動の上では反逆児的) と描写した上で、その音楽の神秘性については Le non-dit, l’émotion à fleur de peau. (沈黙という言葉、壊れそうに過敏な感情) などと形容。 とにかく、全文、ほぼこんな調子なので、読む方としては、雰囲気は非常によく伝わるものの、日本語にしようとした瞬間、すべてが雲散霧消というか、なんだか霧のかなたに消えてしまうような感じ。 別にこれが悪いといっているわけではない。なにしろ原文にとどまっている限りは、いいたいことはかなりよくわかるし、商業用文章とかポップソングの歌詞などによくありがちな安っぽい美辞麗句的なものとはもちろん比べ物にならない。 美辞麗句や象徴的形容の多用といえば、ジャーナリスト用に書かれた新商品のプレスリリースの類なんかはまさにこのタイプ。かつてフランス語を知らなかった時代に、こうしたプレスリリースの日本語訳を私たち編集者はしょっちゅう手にしたわけだが、そのたびに一同、 「?」 プロの翻訳者ではなく、少々フランス語をかじったくらいのプレス担当者などが適当に訳している場合が多いわけで、訳自体がこなれていないことを差し引いたとしても、いかんせん、原文自体が日本語に訳したときに「意味をなさない(なしにくい)」代物であることが多いという事実は間違いない。フランス語とは、一方でデカルト的明晰をよしとする言語でありながら、他方、内容空疎な美辞麗句を無自覚に列ねた、バタークリームたっぷりこってりの(すべてにおいてtoo muchの)出来の悪いフランス料理にも通じる「世紀の大悪文」へすべり落ちる可能性を大いに内に抱えた言葉であることを、つくづくと思う。 その連想でもう一つ。◯◯人のジョーク集というようなもの、これはフランス語に限ったことではないけれど、あれを日本語に訳すのも非常に難しい。「ねえねえ、それってどういう意味?」と聞かれ、しぶしぶ訳したとたん、「・・・?」という冷たい空気が立ちこめ、その気まずさをなんとかしようと必死になって「補足説明」を加えたこと、過去に何度あったことか。最悪なのは、ジョークを発した本人(非日本人)が、「是非、これを君の友だちに訳してあげてくれ」と懇願するケース。最初から「どうせ受けないよ」とわかっていながら、それでもなんとかその人の名誉をあまり傷つけないように、と、それはそれは難産の訳文を披露したところが、やっぱり「受けない」のである。 ドビュッシーそのものの「翻訳不可能性」みたいなことにも、ふと思いがいった。 「甘い阿片」とかいわれてもなあ、という気持ちがある。だからむしろ言葉ではなく、情景とか絵(平凡だけれどそれこそ、モネの睡蓮、的な絵)、はたまた、若かりし頃、こともあろうに自分をもり立ててくれていたプロデューサーの妻と不倫してた、という、彼のそんな身持ち悪そうな側面なんかを「ふ〜ん」と想像しながら、楽譜に向かう。そうだ、それがいいんだ、きっと。 ※このプレリュード(前奏曲)は日本語では「夕べの大気に漂う音と香り」と訳されているようだ。 2012年 02月 13日
住む土地に対して、ことのほか強い思い入れを注がずにいられない人と、案外、こだわりなくフレキシブルでいられる人とがいるとしたら、私は間違いなく前者である。
生まれ育った町を除けば、スイスのチューリッヒで暮らした年月が人生でもっとも長くなってしまったことは、誰よりも本人がもっとも驚いている。ここまで滞在が長引くと「住めば都」の側面はさすがに否めず、この土地で私は多くの人と出会い、大切な友人もでき、そして子供たちのジグザグの成長過程のもっともインテンシブな時期とここで向き合ってきた。町中の裏道抜け道にも通じ、大した数のない「マシなレストラン」も大方試し、日常の買い物や信頼できるお医者さんの見取り図もすっかり整って、ここは紛れもなく私が生活人として根を張っている土地である。 けれど、私はこの町そのものに対しては、相変わらず無関心で、ことさらの愛着も抱けないままの状態。かつて、京都をパリをインテンシブに、それこそ我を失うような仕方で愛したのとは実に大違いなのである。 パリを離れて15年にもなれば、かつて親しくしていた人との縁も薄れ、町の風景も変化し、昔のような「私の庭」感覚は確かに乏しくなっている。新しい店にまったく明るくないので、訪れるのは見知った古株ばかりだし、晩ご飯を一緒に食べよう、さて、誰に連絡しようかなと思ったとき、咄嗟に浮かぶ顔もそんなにたくさんない。個人的なつながり、という意味でいえば、今やスイスこそがもっとも濃厚なのであり、パリは旅行者みたいな感覚でしかない。 にもかかわらず、スイスに対して強いパッションを抱けないままというのはなかなか残念なことなのだが、そのからくりが、先日出張で訪れたパリのホテルで、天井をにらみながら突然見えてしまったのだ。 スイスには個人的に大切に思う人がたくさんいる。その人たちのために、私はこの土地に住んでいるといっても過言ではなく、それは逆にいえば、もし、親しい人たちが誰もいなくなってしまったならば、私はここに二度と舞い戻ってくることはないだろうな、と断言できるという意味でもある。それに対し、今や親しい人がさほどいるわけでもないパリに性懲りもなく舞い戻っていくのは、それはやはり土地そのものの引力に強く引かれるからなのだ。「現存の人、生身の人間VS土地そのものの力」—―ああ、そういうことだったのか、と、いろいろなことが急にはっきり見えてきた。 「安全、清潔、よく機能している、豊か」という理由だけで、その土地に夢中になったりその土地をいとおしく思ったりするなんてことは、私にはできない。逆に、個人的に存じ上げているわけではない(そりゃそうだ)にもかかわらず、かつてそこにマリー・アントワネットが、ピカソが、ヘミングウェイが、サンローランが、ショパンが、そして高級娼婦たちや飲んだくれたち、ブルジョワマダムたちや身勝手な男たちが生きていた、という事実は強烈である。そうした人々の総体がつくりだす土地のスピリット、そうした人々を懐に抱きながら綿々と存続してきた土地の吸引力というものは、個人的なお友達がそこに一人もいなかったとしても、その土地と自分とを強く強く結びつけるのに充分だからである。 サンジェルマンのお蕎麦屋さんで初老のご夫妻と隣合わせになった。二人であれこれいいながらメニューを研究していたが、男性のほうが、意を決した口ぶりで「よっし、僕はほら、このアナマキっていうのにしよう」というのが耳に入ってきた。「穴巻きとはなんぞや? 」と手元のメニューでこっそり確認して、それが「花巻蕎麦」のことであることがすぐにわかって私は一人、お腹の中で吹き出していた。この店の常連であるらしい男性が、蕎麦についての蘊蓄を相手の女性に語っているのを聞くのもなんだか楽しく、そのとき私は一人だったけれどちっとも退屈することなく、まるで旧知の友人と食卓を囲んでいるかのような気がしたものだった。ピカソやサンローランとはまた違った意味で、こうした日常のシーンもまた、土地の吸引力の一端をになっていることをはからずも実感した体験だった。 そんなパリ滞在中、チューリッヒの友人からひょっこりSMSが届いた。「住めば都になるかもしれないチューリッヒに、元気に戻ってね。待ってます!」——— この土地に対する私の煮え切らないスタンスを充分わかってくれた上でのこのメッセージを、私はものすごくありがたいものとして受け取った。「そうだね、あなたがそこにいてくれる限り、私はちゃんとお家に戻っていくわ」 折しもパリへ発つ直前、チューリッヒで催した私と夫のささやかな合同お誕生パーティの集まりに、親しい友人たちがたくさん駆けつけてくれ、それはそれは思い出深い一夜を過ごしたばかりだった。特に興味のない土地ではあるけれど(と、断言してしまおう)、この人たちがいる限り、ここはやはり大切なところなのだという実感があった。住めば都とは、なるほどそういう意味だったのかもしれない。 2012年 02月 03日
養護施設で育つ子供たちの夢の実現をサポートする目的で設立された「カナエール」。先の東北大震災に際しては、被災地の青少年の進学をサポートする緊急支援プログラムも立ち上げています。
私事ですが、先日、夫とジョイントで100歳バースデーパーティを企画した際、震災支援への協力をゲストのみなさんにお願いしました。せっかくならば、趣旨に共感できるサポート先をということで、あれこれリサーチをした結果、行き着いたのがカナエール。親しくしている東京の雑誌編集者の方から名前を聞き、これはいい、とすぐにピンときました。 折しも私自身の子どもが来夏からアメリカで大学生活を始めます。いろいろな意味で恵まれた環境にある我が子ですが、その大きな一歩を祝福すると同時に、他方、さまざまな理由で進学や、夢の進路の実現を断念しなくてはならない子供たちが被災地には大勢いるということに胸が痛みます。日本では多くの公的支援の年齢制限が18歳未満になっているそうで、震災で家族や家屋を失った子供たちは、もし今16歳とか17歳、あるいは18歳以上だったなら、本来ならば大学や専門学校に進学したり留学したりという夢を持っていたとしても、それをあきらめなければならない、そういう厳しい状況の中にいるというのです。 いろいろ調べてみたところ、カナエールのプレスをしている方も、実は私の知人だったことが発覚。そんなわけで、個人的に二重にも三重にもご縁を感じ、是非、こちらの活動を支援させていただきたいと思ったのです。 このたび、カナエールのアンバサダーというものにもならせていただきました。子供たちが夢を実現し、ひいてはそれが、地域の復興、日本経済や文化、いや、もしかしたらもっとグローバルな意味での貢献という形につながっていくことに、大変ささやかながらひとしずくのお手伝いをご提供できるのであれば、こんなに嬉しいことはありません。自分たちの誕生日を祝う会でしたが、合計100年という長い年月、私も夫も、それなりに自分のしたいことを探し、そのために勉強したり、努力したりということもしてきたわけですが、そのような「夢追求」の年月が可能であったこと自体、思えば恵まれたことでした。そんな思いも新たにし、いろいろな意味で思い出深いバースデーとなりました。 < 前のページ次のページ >
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