序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2019年 06月 02日
突然の夏日で庭のホルンダーが満開。このホルンダーという花、日本語で「ニワトコ」と聞いても何のことやらさっぱりわかりませんが、ここスイスでは非常に一般的。増殖力が旺盛なこと以外、何ら特筆すべき素敵な要素もない樹木なのに、つける花々の可憐なことといったら。 小指の先ほどの花そのものはクンクンと鼻を近づけてもとりたてて芳しいわけでもないのに、ひとたび加熱されると独特の香りを放ちます。それにしても熱を帯びて麗しい香りを放つとはこれまた、何と色っぽい。なんとなくスイスに似合いませんね(笑)。 丁寧に摘み取った花をレモン汁を加えたお湯に浸しておくと、香りの良い爽やかなシロップができます。この辺りの若者に人気のカクテルHugoはプロセッコにミントの葉っぱやライムの絞り汁と共にこのシロップを加えるのがポイント。 さて、本日は、けれどシロップではなく、やはり今が旬のルバーブと一緒にジャムを作ってみました。ルバーブはマーケットで大きな束を三つ買ってきました。計ったら2キロくらい。結構な量のジャムになります。 作業中のラジオはドイツのバイエルンクラシック。「手仕事とラジオ」のコンビが三度の飯より好きといっても過言でないくらい好きなのですが、今日はそのバイエルンからスクリャービンのエチュードop.2が流れ出てきて、思わず作業の手が止まって聴き入ってしまいました。この曲にはこれまでしばしば泣かされた(二重三重の意味で)ものですが、本日もまた、うるっとくるものが。しかしこれ、彼が16歳の時に作曲したものです。16歳の坊やが57歳のおばさんを泣かせるってすごくないですか? 何という早熟、何とまた痛いところをついてくるものでしょう。 ホルンダー、これからしばらく順に開花していくので、来週は基本に返ってシロップを作りましょうか。ご近所で欲しい方は摘みにいらしてね。ただし木の背丈がすごく高く、摘み取るのがちょっとアクロバット的に大変、というか大方は不可能なのですが。 #
by michikonagasaka
| 2019-06-02 04:04
| ごはんの話
2019年 05月 06日
スペインのコルドバに来ています。昨日までグラナダにいて、アルハンブラ宮殿で丸一日、魔法にかかったような状態だったり、作曲家マヌエル・デ・ファリャの家を訪ねたり、彼の友人だった画家、ゲレロの美術館に遊んだり、タパスバーでのらりくらり過ごしたりと楽しい時間でしたが、ここコルドバはコルドバで、また別の意味で面白い。そのことをちょっと書こうと思います。 遠い昔、西洋古典と中世哲学をちょっとだけ勉強した私にとって、コルドバ訪問はいわば巡礼のようなもの。何しろここはセネカの聖地であり、マイモニデスが活躍した街であり、アヴェロイスが生きた土地なのです。当時はヨーロッパの地理感覚も世紀のイメージも全く持ち合わせず、「どこでいつ」という感覚が全く欠落した状態でセネカのテキストを読んだり、アヴェロイス経由でアリストテレスと邂逅した中世ヨーロッパ人たちの興奮を追体験していたに過ぎませんでした。コルドバという名前はそれなりに見たり聞いたりしていたのでしょうが、セビリヤやグラナダ同様、ローマやカルタゴ同様、コンテクストも距離感も時間感覚も伴わない個別の抽象的な名称に過ぎませんでした。それが今回、地図を片手に街をそぞろ歩く中、セネカの銅像(頭なし)がポツンと佇むセネカ広場、迫害され、追放されたセファルディムユダヤ人の軌跡を綴る美術館、イスラム文化の栄華と衰退を物語るモスクといった場所に身を置くことで、ばらばらだったパズルのピースが一挙に居場所を見つけておさまる感覚といいましょうか、ああ、ここでこうやって彼らは時代の空気を吸い、行き交う人々と交わり、思索し、食べて愛して悩んだんだなあ、と合点が行く思いでした。 折しもこの週末は「五月の十字架 (cruces de mayo)」というお祭りのようで、赤いバラでかたどられた十字架が街のあちこちで見られます。十字架の足元は色とりどりのお花畑。そして町の広場に設けられたステージでは地元のダンス学校の生徒さんたちがフラメンコの技を競います。大人から子供まで、フラメンコの踊り手の層の厚さは実に大したもの。真っ赤な口紅、キチキチにひっつめたシニヨン、太めに描かれた眉毛。ダンスにおける目力とポスチャァの大切さを思い知らされると同時に、ここはローマ・カトリックの地なのに、全てが濃いめのキンキラキン満艦飾。東方教会に通じるキッチュな美意識の迫力にも感銘を受けました。 一夜明けた日曜日は五月の十字架祭りもいよいよ佳境に入り、これまた東方教会(ギリシャ正教やロシア正教など)的なコスチュームやプラスチックっぽい神輿(というのか)が醸し出す雰囲気は、世界のどこでも通用する土着の伝統行事の普遍的な空気でいっぱい。方やその同じ街角には威風堂々のコミュニストパーティ本部の姿も見え、フランコ時代の抑圧と専制に抗した彼らの声が聞こえてくるよう。 実際、今回の旅では、フランコの爪痕というか、傷というか、そういうものを色々感じました。ピカソもゲレロもデ・ファリャもカザルスも、そういえばみんなフランコ時代に祖国を捨てた。およそ何かを表現したいタイプの人間にとってファシズムや検閲、言論統制ほど辛く悲しく窮屈なものはない。 「書を焼く者は人をも焼く」と言ったのはハイネでしたか。コルドバに来てハイネを思い出すというのも変なものですが、イスラム学者アヴェロイスの西洋思想史における尊い貢献、セネカの作品を21世紀の私たちが(しかも翻訳で)読める奇跡、スペインを追放されたユダヤ教徒の系譜にスピノザもいたのだ、というようなビッグピクチャーがにわかに立ち昇ってきたのが今回の旅であってみれば、そうした感慨もそれなりに筋が通るように思われます。 さて、我らがセネカ、私のロマンチックな郷愁をややくじくかのように、ここでは一つ星ホテルや自動車教習所の名になっていたりします。その世俗化、商品化の勢いはポーランドにおけるショパン、ザルツブルクにおけるモーツァルトのポジションにも通じるものがあり、しかし、まだまだずっと控えめなところにホッとします。マイモニデスに至っては商品化のかけらもなく、やれやれ。 最後に備忘録として、セファーディックユダヤ美術館で見つけたマイモニデスの「よい食べ物、悪い食べ物リスト」をご紹介。これは彼の著作「健康な食事」の冒頭を飾るリストだそうですが、後に大迫害で消滅してしまったこの地のユダヤ人たちの黄金時代が垣間見え、諸行無常とつぶやかずにはおられぬところです。 プラム :食前に食べると下剤として効果的である。 ほうれん草 : 便秘によい。 メロン : 黄色いメロンはよい食べ物。離尿効果に優れ、血管をきれいにし、消化もよい。 イチジク : ブドウと並び、最も害のない食べ物である。 桃 : 最悪の果物の一つ。気分のムラを生む。 ザクロ : 食後にグラス一杯のザクロジュースをお勧めする。 豆 : お勧めできない。頭をぼんやりさせるから。 アプリコット : 最悪の果物の一つ。 ヤギ肉 : とてもよい。神経系の病を防ぐ効果あり。 チーズ : 脂質が多く体に悪い。ただし白いチーズは例外。 グリンピース : 食前に食べるのがよい。マイルドな下剤効果あり。 オリーブオイル : ドレッシングとして用いるとよい。 はちみつ : 高齢者によい。 ドライフルーツ : 食事に添えるとよい。肝臓によい。 ナス : 男性にはおすすめしない。 ワイン : 最良にしてもっとも味わい深い食べ物。栄養価に優れ、為になり、消化を助ける。 #
by michikonagasaka
| 2019-05-06 01:50
| 身辺雑記
2019年 04月 14日
結論から言うならば、世の大勢に反し、私が瞬間反応的に抱いた感想は、ある種の違和感だった。人間付き合いの上でも、何か表現されたものを見聞きした際にも、微かな違和感、時に大きな違和感を抱く場合には、一瞬、立ち止まってその違和感が一体どこから来るのだろうということを考えてみる。とりわけ、拍手喝采の音が喧(かまびす)しければ喧しいほど、なぜ、自分はそこに「乗っかれないのか」ということを考えてみる。それが物心づいた頃より習いとなっている、いわば私の癖である。 そう、今回もまた、私が見聞きする限り、氏のスピーチは各方面から拍手喝采を持って迎えられ、よくぞ言ってくれた、という共感が共感を呼び、そのこと自体が今、日本社会が置かれた状況を物語っているように思われる。だからこそ、そこに素直にまっすぐに乗っかれない自分は、一体なんなんだろうか、という疑問が湧いてくるのである。 祝辞全文はこちら↓に載っている通り。 ちょっと想像してみる。自分が今年、東大を受験して合格し、この会場に座っているという状況を。私はついこの間までどこかの高校に通っていた。制服を着ていたかもしれないし、私服だったかもしれない。共学校だったかもしれないし、女子校だったかもしれない。塾に行って勉強したのかもしれないし、そうでなかったかもしれない。家族に東大出身者がいるような環境から来たかもしれないし、家に本などほとんどないような環境からやってきたかもしれない。東大の場所を前から知っていて地下鉄乗り換えがスムーズにできる東京出身者だったかのしれないし、どこか離島の出身だったかもしれない。たまたま偏差値が高かったから自然にこの大学を受験したかもしれないし、ある学問のある分野に興味があって、それを学ぶ場として東大を選んだかもしれない。受験英語で精一杯だったかもしれないし、帰国子女だったかもしれない。親が日本人じゃないかもしれない。そしてもちろん、女子学生ではなく男子学生だったかもしれない。 そう、100人東大生がいたら、100の事情や理由やバックグラウンド、そして性格や気質がある。そういう聴衆がその日はそこに集まっていたはずである。入学式祝辞は、そうした「多様な若者たち」に向けての祝いの言葉である。マジョリティを占める男子学生の大半は、相手が頭が悪いからレイプしてもいいなどという発想とは無縁の人だと思う。それどころか、女子とまともに目も合わせられないオクテかもしれない。同性愛者かもしれない。少数派の女子学生の中には、すでにジェンダー意識が根付いている人もいれば、そんなこと考えたこともない人もいるだろう。女子校からいきなりここへやってきて、いきなり数の上で圧倒的なマイノリティである自分を発見し、居心地の悪い思いを抱えている人もいるだろう。同性愛者もいるだろう。そんな彼らの顔を思い浮かべながら、氏のスピーチで「傷つく」とは行かないまでも、疎外感を抱いた人が少なからずいたであろう、とまずは想像するのである。 30数年前、ちょうど私自身がこんな風に大学入学式に参列していた。満開の桜がぶり返した寒さで少し縮こまってるような花曇りの日だった。場所は京都大学の体育館。で、どんな祝辞だったのだろうと思い返しても何一つ覚えていない。式の途中、突然、赤ヘルか革マルかわからないけれど、そういう学生運動の人たちが棍棒や拡声器を手に乱入してきてちょっとした騒ぎになった。生まれて初めて目にするそんな光景に呆気に取られ、祝辞どころじゃなかったからである。 今はどうか知らないが、あの頃の京大は女子が最も多い文学部でさえ、200人中、女子は40人いるかいないか。工学部などは女子皆無の学科も多かった。上野氏祝辞に「女子学生お断りのサークルがある」「学外では大学名を言わない女子がいる」というくだりがあるが、そっくりそのまま当時の京大の状況そのものである。だからといって我々女子学生が奮起して差別と戦い、声を上げたかといえば、そんなことは実は全然なかった。学問を志してやってきた人もいれば、高校で成績がよかったからなんとなくきた人もいた。けれど総じて我々女子学生は自分に自信がなかったと思う。東大はどうか知らないが、京大女子の大半は取り立てて野心もプライドもなければ強いパッションとも無縁。控えめで大人しい感じの人が圧倒的だった。そんな私たち、「京大女子はブス」と言われ、「嫁の貰い手がいない」と言われ、その上、就職でも「使いにくそう」と敬遠される。じゃあ研究職にでも行くかと思ってみても、博士課程までいったところでその後の大学教員採用では多くのケースで男子が優先される。「何をやってもダメな私たち」「世間で浮かばれない私たち」の多くはそんなわけで、卒業したら故郷に帰って公務員か学校の先生にでもなろうか、そのくらいしかできることないし、という意識だったのである。先輩に上野千鶴子先生がいるんだよ、と聞いても(当時、氏は京大大学院を終え、京都の平安女学院というところで先生をされていた)、あまりにレベルが違いすぎて、というか自分たちにガッツがなさすぎて、到底ロールモデルにはなり得ず、むしろ、自分たちの意識の低さを怒られそうでおっかない。大変恥ずかしながら、その程度の認識でしかなかった。 大人になって久しい今、そして日本の外で30年以上暮らしてきたことも一役かっているだろう、気弱なかつての女子学生だった私も今では普通にジェンダー意識はあるし、差別的な構造の被害者であるばかりか、自らもまたその構造を維持発展させていく役割を担わされてきたことも十分に理解している。上野氏のような先人が切り開いてきた土壌の上に乗っかって、その果実を呑気に享受しつつ、まだまだ全然足りない点、逆に後退した点、制度や人々の意識におけるジェンダーバイアスのようなことにも人並み以上に意識的な方であるとは思う。祝辞の、とりわけ後半部分の趣旨そのものに関しては、ほぼ全面的に賛成だ。 にもかかわらず、のこの違和感。 それはたとえば「たとえ難民になっても」とか「世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体を壊したひと……たちがいます。がんばる前から、「しょせんはおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます」といったフレーズにおける、ある種の選民意識的な大前提が引っかかるからかもしれない。 「私たち、君たちは恵まれていて、その他の可哀想な人達、がいる」という二分法が、私自身の倫理観、いやそんな大したもんじゃなく、単なる好み程度かもしれないが、とにかくそことずれるところがある。たとえ東大に入ったとしても、今、この瞬間に辛いことがあったり、心や体のどこかが具合悪かったり、いわゆる「恵まれた家庭」というものを持たぬひとだっているだろうに。「東大生=優秀で恵まれた特権階級」という紋切り型のカテゴライズを前提とし、難民を「あっちの人」と区切る、そういうナラティブに対しての苦手意識といったらいいだろうか。 そう、この祝辞には、その内容の正当性や良き意図にもかかわらず、かつてのおどおどした京大女子学生だった自分はおろか、長年の異文化暮らしの中で被差別の経験なども順当にこなしてきたいい年した海千山千おばさんをも気後れさせる何かがある。 ついでに言うならば、この件をきっかけに、入学式会場の写真もいくつか目にしたが、リクルートも顔負けの「同じ格好がずらりと並ぶ」この感じ。これは少なくとも30数年前にはなかった。私自身は割とミニ丈のチェック柄のツーピースを着て花曇りの入学式に臨んだことを覚えている。みんなそれぞれ好き勝手な格好をしていた。何しろ赤ヘル乱入もアリという無秩序ぶりがデフォルトだったくらいなのだから(この点から推察するに、同調圧力という点では日本社会は「後退した」気がする)。 そしておぼろげすぎる入学式の記憶に比して、案外鮮明に残っている卒業式の記憶。そこには在学中に学生運動とか原理などの方に行ってしまい、そのまま姿を消して二度と戻ってこなかった数人の空席があり、落第した人たちの空席があり(8年まで在籍できるから、まだ4年あるでぇ〜、と豪語していた人もいました)、そして総代(たぶん一番優秀な人がなるのでしょう)を務めたのは文学部西南アジア史専攻の女子Kさんだった。当時の意識ではアファーマティブアクションという発想はなかったはずなので、彼女は男女関係なく、純粋に実力で選ばれたんだと思う。物静かなアニメ好きだったKさん、卒業と同時に結婚し、いつしか別れてアメリカでPhDを取ったというところまでは聞いていたけれど、今はどこでどうしているのだろう。彼女なら、上野祝辞にどんな感想を抱いただろうか。 #
by michikonagasaka
| 2019-04-14 18:39
| 考えずにはいられない
2019年 04月 01日
平成は私にとって「そっくりそのまま日本を留守にした年月」だ。スーツケース二つを抱え、パリに引っ越した時は昭和だった。その引越しの四ヶ月後に昭和64年が突然平成元年になった。西暦1989年。 この西暦1989年は、ヨーロッパ暮らし一年目の私にとって、実に印象深い年だった。まず、フランス革命200年祭があり、ついでベルリンの壁崩壊という大事件が起きた。王政を倒し、自由平等博愛のスローガンを掲げた共和制が敷かれてから200年。その間、いろいろありましたが、なんとかここまできました、民主主義万歳、フランス共和国万歳というお祭り気分がパリの街に横溢し、三色旗がはためき、200年祭記念コインが発行された。ルーヴルのピラミッドが完成したのもこの年。そしてそのお祭り騒ぎの余韻も冷めやらぬ11月、ベルリンの壁が崩壊。 ここはベルリンじゃないのに、人々は歓声をあげ、道におどり出て、テレビはどの局もこのニュースで持ちきり。アナウンサーの声も高揚して上ずっている。やがて土ぼこりにまみれた東ドイツナンバーのトラバントががクラクションを鳴り響かせながらパリの街にも流れてきて、そんな彼らを歓喜の渦が取り巻いた。これから時代はどんどん良くなる。人々は自由になり、豊かになり、重苦しかった冷戦時代は終了し、世界は平和に向かってまっしぐら。あの年ほど楽観主義と希望が大気を満たしていたことはなかった。 ベルリンの壁が作られたのは1961年。実はこれ、私の生年でもある。その崩壊の年に、こうしてベルリンと地続きのところに自分は立っていて、人々の歓喜の振動を足元にしっかりと感じ取った。欧州に溢れる希望の空気を、よそ者の私も一緒に吸い込んだ。そんな経緯があり、1989年は自分の人生の節目ともいえる、忘れ難き年となったのである。 ・・・・・・・・・・・・・ 閑話休題。 スイスの私の住まいの周りにはシュレーバー・ガルテンと呼ばれるのどかな景色が広がっている。賃貸ガーデンとでもいおうか、普段はアパート住まいの人々が市の土地を借り、週末ごとに訪れては丹精込めて菜園や花壇を作っている。小さな小屋を立てたり、バーベキュースペースを作ったりする人も多い。菜園の一角にテーブルと椅子を備えたり、コンポストコーナーを作ったり、あるいは葡萄棚をこさえたり。ヨーロッパの多くの国と同様、スイスでも日曜には店は基本的にしまっている。その上、日曜には工事や芝刈りなど、騒音を出すことをしちゃいけない、という決まりもある。だからみんな、ハイキングに出かけたり、湖畔に遊んだり、あるいはこうして小さな賃貸ガーデンで友人や家族とのんびり過ごしたりするのである。 さて、そんなシュレーバー・ガルテンの一つ、我が家の真正面にあるのがロスさんの庭。リンゴの古木、季節の野菜、それに畳2畳ほどの小屋。そんな自慢の庭にロスさんは毎日のように通ってきていた。年金生活になってもう随分になるらしかった。奥さんに先立たれて寂しい日々だったが、やがて元気を取り戻して日参するようになった。周りにはガーデニング仲間もたくさんいる。収穫した野菜を分け合ったり、庭先でビールを飲んだり。農作業で曲がった腰をよいしょ、と伸ばし、よく日に焼けた顔にたくさんのシワを刻みながらいつもニコニコと楽しそうだった。けれどロスさん、ある時、この畑を「とうとう手放すことにした」という。「もうさすがに年でね、この坂道を毎日通ってくるのもしんどいし」と。そうなんだ、それは残念、と思ったが、ご本人、案外、サバサバしている。「まあ、また時々遊びに来ますさあ。仲間もいますしね」と。 それから数年。久しぶりに道端でロスさんにバッタリ。かつての仲間を訪ねて来たらしい。 「お久しぶりです。お元気そうで」 「おかげさまで。まあなんとかやってますよ。そちらはどうですか」 私の下手くそなドイツ語で、それでも犬のこと、お天気のことなど、立ち話を少しばかり。さて、そろそろおいとまを、という雰囲気になって来たところでロスさん、 「ところで、えーっと、お名前失念して申し訳ない・・・彼ははて、なんとおっしゃいましたかな」と脳内記憶を辿る表情に。 はい、誰のことかしらん、と続きを待つ私の耳に飛び込んで来た言葉。 「あの、あなたのボス。彼にもよろしくお伝えくださいね」 はぁ??? ボス??? 今、「あなたのボス」って言ったよね、確かに?? 瞬時に全てを理解し、私は答えた。 「私の夫のこと、ですか?」 温厚なロスさん、2秒くらいの沈黙の後、急に慌てふためき「いや、これは失礼しました」としどろもどろに。 この家に越して来て十数年。畑を手放す前のロスさんと立ち話をしたことは数え切れないほど。もぎたてリンゴをもらったこともあったし、犬におやつをくれたこともあった。車で家を出入りする私を何百回と見ているはずだし、犬連れ、子連れの姿も数え切れないほど目にしているはずだった。 その間、彼は私のことをずっと「この家のお手伝いさん、兼・子守り」と思い込んでいたのである。 いい年をしたおじいさんだし、彼に悪気はないことはよくわかる。平成元年の頃の私であれば、こんなことの一つや二つにいちいち傷ついたりムッとしたりしていたはずだが、さすがに30年という月日は私をたくましいリアリストに変えた。要するに、この顔、この振る舞い、このドイツ語のせいで、この土地では「お手伝いさん」と決めつけられるようなことが、今でもまだ割に普通にある、ということ。お手伝いさんが悪いわけではもちろんなく、この顔には移民家事労働者が相場、と瞬時に理解し、それを疑ってみることすらない人が案外たくさんいる、ということである。 ・・・・・・・・ イチローが引退会見の最後にこんなことを言っていた。 「アメリカに来て、メジャーリーグに来て、外国人になったこと。アメリカでは僕は外国人ですから。このことは外国人になったことで人の心をおもんぱかったり、痛みが分かったり、今までなかった自分が現れたんですよね」 世界のイチローに自分を投影するなど、滅相もないことだが、それでも私は「わかるわかる!」と膝を打った。「だよね」と心を寄せた。 言葉がうまくできない時、コミュニケーションの文化差がよくわかっていない時の、あのとんでもない疎外感。孤独感。そして「見かけ」でなんらかの判断をされたり印象を持たれたりするという経験をを何十年も生きてきたこと。 平成30年は、私にとって、そういう時間でもあった。 その平成がまもなく終わろうとしている今、だから日本のテレビで外国人の日本語を笑ったり、街角でもビジネスシーンでも白人とその他の扱いが明らかに違っていたり、書店の店頭に目も当てられないようなタイトルの書物がうずたかく積まれていたり、ヘイトや弱いものいじめの快感に酔いしれていたり、といった光景にひどい失望を覚える。おいおい、この30年はなんだったのか? と問いたくなる。 30年前、日本はヨーロッパより物価が高かった。日本は技術立国で、世界で一番優れた生理用品があり、トヨタのカンバン方式が世界中のビジネススクールで教材となっていた。日本は「便利」で「能率や効率の良い」「進んだ」国だった。 30年後の今、日本の平均所得は先進国最低ラインだし、タクシーからランチまで、30年前と同じ値段の国なんて、他に見たことがない。大学ランキングも男女平等ランキングも報道の自由度ランキングも幸福度ランキングも子どもの貧困ランキングも、すごいスピードで下がり続けている。オリンピックに向けてQRコードでJRの切符が買えるようにするというようなニュースを見て、え、そんなのこっちじゃあとっくの昔から普通にやってますけど、と驚いた。JRの自販機では海外発行のクレジットカードでは数年前まで発券してもらえなかった。オンラインショッピングでは在住県名を入れないと買い物できないことも普通。いい年をして、住民票もないのに親の家の住所を入れないと、買い物ひとつできないのである。平成も下るに従い、なんなんだ、この後進国? そういう印象を数え切れないほど抱いた。 30年前、あんなに英語が下手だったフランス人、今ではみんな英語、普通にできるようになっているし、中国や韓国からの旅行者や留学生もしかり。でも日本だけ、30年前のところで止まっている(ことが多い)ように思われてならない。日本は今、低賃金で文句も言わず長時間働く就労者、並びにひどい条件でこき使われる派遣労働者や外国人労働者に支えられた経済モデルに長らく甘んじる一方で、成果主義が教育や研究、福祉の分野で声高に叫ばれる国、外交プレゼンスはゼロに近く、中高年引きこもりが61万人を超える国。この30年の間にWagyuやUmamiと並び、Hikikomoriもまた、アルファベット表記される国際語になったのである。 じゃあ海のこっちはどうなのか、といえば、ベルリンの壁が崩壊して「さあ、世界はどんどんよくなる」と舞い上がってから30年。世界は全然よくなってないどころか、未来の時間への信、そこに託す希望という感情までもが風前の灯火になってしまった。 平成の30年をそっくりそのまま日本の外に暮らし、時にお手伝いさんと思われ、また時に蝶々夫人的視線を浴び(なので私はオペラのあの演目が大の苦手である)、それでも自分の中で国境や言葉の境界線は次第に薄くなって、まあいいか、何人(なにじん)でも、というところまでやってきて、それなりにフルコース盛りだくさんの30年だったという感慨がある。ラジオ好きの私は、朝に夕に色々な番組を聞くが、そんな中、ベルリオーズはエキセントリック過ぎてフランスでは今ひとつ受け入れられず、逆にロンドンでこそブレイクした、なんてことを知って、へーっと感心したりしている。今、ちょっと炎上している独・ホルンバッハのCMの背後にある、彼らの視線のニュアンスもなんとなく分かって複雑、不愉快な思いになる(女子高生の下着が自販機で売られている「驚くべき国、という描き方のドキュメンタリー番組がドイツで放映されてかなり話題になった。このCMの背景にはおそらくそうしたことによる「日本(アジア)の性風俗」への覗き見趣味があるし、またアジア系女性一般への差別的眼差しがあるのだと思う)。 自分の子供たちの生年すら、平成で何年なのかついに覚えられぬまま、平成の30年がもうじき終わる。1989年から2019年という時間は、自分にとって悲喜こもごも、とても強烈なリアリティがある一時代であった反面、平成の30年は、どこか幻のような存在で、つかみどころがないまま終わってしまうような気がする。そんな平成における最大のインパクト。それは3.11。そして特定秘密保護法が通過した時だったかなと思う。胸が押しつぶされるような出来事で記憶される30年、というのはいささか切ないものである。もうちょっと明るく希望に満ちたフェアエルと行きたいところだったのに。 追記 平成が終わるのはまだ少し先なのに、ついつい勇み足のタイトルになってしまいました。そうですね、明日は元号が発表される日、ということだけでした。 #
by michikonagasaka
| 2019-04-01 01:31
| 考えずにはいられない
2019年 03月 18日
先週末、拙著「パリ妄想食堂」(角川文庫)の発刊を記念し、地元チューリッヒにて、「長坂道子と妄想食堂 in Zurich」と題した朗読会を開いていただきました。突風に驟雨、これでもかという悪天候の中、たくさんの方にお越しいただき、とても賑やかで楽しい会となりましたこと、改めて御礼申し上げます。 朗読会、ドイツ語でレーズングと言いますが、ドイツ語圏ではこれは非常にポピュラーな習慣で、作家が本を出した時はもちろんのこと、音楽会とのコラボ、展覧会とのコラボなど、日常のあらゆるシーンでこのレーズングという「エンタテイメント」が行われています。ドイツ語始め、表音文字文化圏では、聞いた音と目にした文字の一対一対応が比較的うまく行きますが、漢字という表意文字が多く含まれる日本語の書き言葉は、そもそも「目で読まれる」ことを想定して書かれている上、ルビとかカッコとか当て字といった「文字遊び」が取り入れられているような場合は、レーズングは時にかなりチャレンジングなものとなります。その辺りのこともなんとなく意識しつつ、拙いながらも心をこめて朗読させていただきました。 チューリッヒでの朗読会はこれで2回目となりますが、今回は、地元の大人気お料理研究家&ケータラーのRico's Kitchenさんがアペロのお食事をご用意くださいました。打ち合わせ段階から「せっかくだから目一杯妄想させていただきます」との意欲満々のお言葉をいただき頼もしい限りでしたが、当日は期待をさらに上回る素晴らしいお品の数々。食いしん坊系の前著「旅に出たナツメヤシ」からのスタートということで、デーツのフォワグラムース挟みに始まり、トマト風味エクレアにサーモンリエットを包んだもの、海老のカダイフ揚げ、青パパイヤと生ハムの生春巻きなどなど、フランスやベトナムをベースに世界を旅するような素敵なメニュー。そしてデザートには、今回、朗読させていただいた章の主役「フラン・パティシエ」も登場。お客様にも大好評でした。 夜の7時開始でしたが、朗読会後のアペロは果てしなく続き、お開きになったのは夜中の2時を過ぎていたでしょうか。古くからの友人知人はもちろん、初めてお目にかかった方もたくさん。世代、職業、バックグラウンドも実に多様で、在スイス日本コミュニティの層の厚さ、頼もしさを改めて実感した夜でもありました。 最後になりましたが、今回のイベントを企画してくださり、当日も楽しい語りや現場の采配で大活躍してくださった畏友ヴィオラ奏者、神谷未夏さん、そして素晴らしい裏方を勤めてくださった皆様、本当にありがとうございました! #
by michikonagasaka
| 2019-03-18 19:06
| 身辺雑記
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