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序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2012年 04月 05日
この欄でも幾度か触れた病床の父が、去る3月23日、入院先の病院で亡くなった。存命中、いろいろご心配いただいたみなさまにこの場をお借りして心よりお礼を申し上げたい。
父、危篤の知らせを受けてからわずか数時間後の出来事。とるものもとりあえず、翌日の飛行機で帰国。成田エクスプレスと新幹線を乗り継いで実家にかけつけた。病院から自宅に戻り、入院前に寝ていた介護用のベッドに横たわった父の遺体に、ちょうど死化粧が施されているところだった。母と、日本国内在住の弟三人が父の遺体を囲み、海外組一番乗りの私がその輪に加わった。その夜、地元の教会でお通夜、翌日、同じ教会でお葬式が執り行われた。日本は思いのほか寒く、喪服に薄い春用コートという格好で、私は終始、ぶるぶる震えていた。 寒がりだった父は、若い頃に留学したアメリカの大学のグリーンのセーター(大好きで毎日のように着ていた)を着て、足下は膝掛けでくるまれ、首周りには数年前に私が贈ったマフラーを巻かれ、棺の中に横たわっていた。 人が亡くなるときには、不思議な現象がいろいろと起こるものらしいということは、私もあちこちで見聞きしていた。ご他聞に漏れず、父の場合も、そのようなことがいくつかあった。 父が亡くなる数時間前、弟(弟2)の奥さんのおめでたが発覚。その知らせを、父のもとに向かう弟が新幹線の車中から母に伝え、それを母が父の耳元にささやいた。すでに呼吸が浅くなりはじめていた父ではあったが、新しい孫が生まれるんだよ、という知らせに、ぴくっと反応したという。誰も口にしなかったけれど、父の危篤以降の数時間内、日本国内国外の兄弟間をとびかうこの知らせに、誰もが「ああ、父の生まれ替わりに違いない」ということを思った。 父が亡くなる数日前、長年の同僚であり、また親友であった米国人の神父さんから、突然、弟のひとり(弟1)に電話がかかってきた。「お父さんのお宅のほうに何度かお電話したけどお留守のようだったから心配になって」ということだった。その神父さんには父の入院のことは知らせてなかったのに、なにか虫の知らせでもあったのか。弟から父の入院のことを知った神父さんは、翌日、新幹線と在来線を乗り継いで、名古屋名物のえびせん「ゆかり」をお見舞いに、病床の父を見舞いにかけつけてくれた。すでに意識が混濁としていた父だったが、親友の来訪ははっきりと理解し、親友が唱えてくれた祈りの最後には、残された力を振り絞るかのようにして十字を切ったという。 その神父さんが、お葬式の朝、再び新幹線に乗って、式会場の教会までいらしてくださった。そこの教会の神父さんと相談の上、葬儀のミサは二人で一緒に挙げてくださることになった。お説教のときは、親友の神父さんのほうがお話をされたが、それはお説教というよりは、故人の思い出、故人と神父さんとの個人的な関わりを中心としたしたお話で、たどたどしい日本語で語られた、けれど父への敬意と愛情に満ちた心に染み入るものだった。 実は父は昨年の夏にも一度倒れ、三週間ほど入院していた。そのときにそのまま天に召されてもちっともおかしくない病状だったのに、なぜか奇跡的な回復をとげ、自宅に戻ることができた。それから5ヶ月後、この世に残された父のたった一人の姉が亡くなった。回復したとはいえ、体力はぐっと落ちている父であったが、「姉の葬式に行かないわけにはいかない」と、寒さの厳しい1月、東京のお寺で営まれたお通夜とお葬式に連日、出席。棺の中の姉に向かって、「ねえちゃん、世話になった」といって一礼した。そのときの父の「元気ぶり」は、周りの誰もが信じられないほどのもので、「これ、反動が怖いよね」と話していたら、案の定、そのわずか二週間後に再び、倒れ、入院。そしてそのまま父は帰らぬ人となった。あたかも、姉をまず見送ってから、という父なりの礼を尽くしたかのようなタイミングだった。 今回の入院中、海外に住む娘三人はそれぞれ、飛行機に乗って滞在数日という日程ではあったが、病床の父を見舞った。「もしかしたら」という思いで、それぞれスーツケースには喪服もしのばせての帰国。かたや国内在住の弟たちは、仕事や家庭で忙しい中、何度も家と病院を往復し、病床の父を、そして父に付き添う母を見舞った。入院直後に亡くなったとしても決して不思議ではないほど弱っていた父だったが、結局、50日間、彼は生き続けた。あたかも、子供たち全員に会ってから、という父なりの段取りを実践したかのような「ねばり」だった。 50日間、病室に寝泊まりして付き添った母は、口には出さなかったものの、心身共に疲労の限界に達していた。あと一週間、あと数日長引いていたら、母自身が倒れていたとしてもちっとも不思議ではなかった。「ごくろうさま。もう休んでいいよ」ーーあたかも、疲労の極限に達していた母を解放するかのような、父の旅発ちのタイミングではあった。 そして父の遺体が自宅から教会へと出発する日。家の前に臨む富士山は、それはもう見事としかいいようのない勇姿をそこにみせていた。「東京には富士見坂とか、富士見ヶ丘なんて地名がたくさんあるだろ。東京もんは富士山が大好きだったんだな」――その東京もんの端くれだった父もまた、富士山にことのほか、強い愛着を抱き、私がスイスから電話するたびに「ここはいいところだ。風光明媚で空気がきれい、それになんといったっておまえ、富士山が見事なんだ」といっていた。高層ビルの乱立で、富士見坂と名のつくものの、富士の「ふ」の字も拝めないところだらけの東京になってしまったけれど、静岡のこの地からは毎日、富士山が見えて、そりゃお前、素敵なんだ、といっていた。雄大な富士に見送られ、あの日、父は父だけの富士見坂を上って空高く召されていった、かのようだった。 お葬式の挨拶で、長男である弟(弟1)が会葬者の方々に語った話の中に、こんなものがあった。 「90年の父の人生。それを振り返ると、誕生の翌年には関東大震災、亡くなる前年には東北の大震災。そして成人の年には太平洋戦争、という、いずれも日本の大惨事に節目節目で刻印されたかのような激動の90年でありました」 父が最後にスイスに遊びに来たときに気に入って衝動買い(そういうことをよくする人だった)した、バリーのけっこうイケメン系のかっこいいメッセンジャーバッグを、この弟が「これ、かっこいいね」といって、遺品に貰い受けた。 「上等なものなんだから、お前、大事に使えよ」 ご挨拶を立派にしてみせた息子、残された母を一生懸命気遣う息子、かつての「ふがいない、心配の種以外のなにものでもなかった息子」の成長に、父もさぞかし安心していることと思う。
by michikonagasaka
| 2012-04-05 13:47
| 身辺雑記
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