序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2012年 10月 30日
ある音楽が、訳もなく心にグッとくるというのは一体どういう出来事なのだろうということを、この頃またつらつら考えている。 以前、この欄でシューベルトのいくつかの曲が涙腺に作用するというようなことを書いた。今から4年も前の投稿ではあるが、そこで触れているシューベルトの即興曲3番は、今もなお、変わることなく私の心を揺さぶる曲のひとつであり続けている。 10日ほど前、私は秋の休暇を娘と一緒にパリで過ごしていた。ディズニーランドに行ったり、古い友だちに会ったり、美味しいお寿司を食べたり、ロシア人ピアニストのコンサートに出かけたり、大昔に見た不条理劇の原点、イヨネスコの「Cantatrice chauve」を観劇したり、とそれはもう盛りだくさんの心躍る滞在だったのだが、中でも忘れられないのがオデオンの映画館で観た映画。いや、正確にいうと映画そのものではなくて、上映前に流れる「近日上映ものの広告」の一つ、オーストリア映画「Amour」のトレイラー。今年度カンヌ映画祭でパルムドールを受賞したこの映画、名前だけはおぼろげに記憶していたけれど、さてそれが一体どんな映画なのかはとんと承知しておらず、先入観も刷り込みもまったくゼロの白紙状態のところへ突然差し出されたそのトレイラー。さすがにトレイラーというだけあって、これだけでは何の話なのやらさっぱりわからない。が、どうやら年老いた夫婦の愛の物語であることくらいはわかる。そして、Amour という、これ以上のシンプルは望めない思いきったタイトル、脇役(娘役)で登場しているのが渋いフランス女優イザベル・ユッペールというような断片の数々はそれなりに魅力的ではあった。だが極めつけは、トレイラーの後半に流れ続けるピアノ・・・・妻役の女性が若かった頃に弾いている、そしてそれに現在の年老いた夫が回想という形で耳を傾けている。そんな物悲しい映像と共に流れてくるのが、なんと、4年前に言及したシューベルトの即興曲3番そのものなのである。 たかが数分間のトレイラー中、たった数小節この曲が流れただけで映画館の暗闇に座っていた私はまたまた胸が一杯に。理由なんて何もないのに、どうしたってこみ上げてくるものがあるのである。よくわからないけど、この映画、封切りされたら絶対に観なくては、と固く心に決め、その後始まった本日のお目当ての肝心の映画のほうには、どこか心ここにあらずの状態でしか接することができなかった。それほどのインパクトを、たった数小節のシューベルトは私に与えたのだった。 その後、スイスに戻ってから、さて、あの映画はなんの話なんだっけ、と少々調べてみたところ、やはりテーマは老いた夫婦の愛の物語。揃って音楽教師だった老夫婦のうち、妻が突然の脳溢血に襲われる。後遺症をかかえた老妻に、夫が寄り添い、支え、愛し続ける、けれど老いた二人は社会から孤立し、パリのアパートを避難所のようにしてひっそりと暮らす。かつてはコンサートに出かけ、後進の指導に当たり、音楽と共に外に開かれたそれなりに華やぎのある世界を持っていた二人に残されたものは、もはや互いの相棒あるのみ。そんな状況の中で、夫婦愛とは、いや、男と女の愛とは、そして老いとは何か、ということを、達人ミヒャエル・ハネケ監督が美しく含蓄たっぷりに描き上げた名作、というようなものであるらしいことがわかった。 ところで脳溢血といえば、私の近しいところで三人、この病に見舞われた人がいる。そのうちの一人は15年前の発作の後、後遺症のせいで車椅子の生活を余儀なくされ、以後、妻は彼の手となり脚となり、目となり口となって献身的に彼を支え続けて来たのだったが、折しも私がパリに旅立つ数日前、彼はとうとう帰らぬ人となった。雨のそぼ降る暗い午後、チューリッヒ市内でひっそりと執り行われた彼の葬儀に、私は喪服姿で参列してきたばかりだった。彼の人生そのものが、まさに歴史の嵐に翻弄された劇的なものであった上に、さあ、これからようやく少しのんびりして、という年齢にさしかかっていた彼をだめ押しのように襲った脳溢血、そしてその最期がこのような静かな夫婦愛に満たされたものであったことが、ひどく私の胸を打ち、葬儀会場の寒さに打震えながら人の運命ということをどうしたって考えずにはいられない午後だった。 もう一人は私の家族の一人。若くして発作に見舞われ、死の淵をさまよったところから奇跡的に帰還。その後、幼い子供を二人かかえ、心身共に辛く、再発の恐怖に苛まれ続けるような状況をなんとか乗り越える数年間をへてこの10月のはじめ、久しぶりに赤ちゃんを授かったばかりである。あの時の彼が、今、こんなふうにして新しい命を両腕に抱き、にっこりと穏やかに微笑んでいる。その写真を目にして、ああ、本当によかった、よかった、よかった、と、遠方にいる私は嬉しくてたまらなかった。 そして最後の一人は私がちょうどパリから戻った日の晩に、同じ病で倒れ、瀕死の状態からやはり奇跡的な回復を現在遂げつつある・・・と、こちらは伝聞の形で知るばかりだが、今も病院で絶対安静を強いられているその人のこと、そして彼女を案じ、支える家族のことを、私は遠くからひっそりと思い続けている。 4年前、私の心を大きく揺さぶったシューベルトが、愛と老いをテーマにした映画の主旋律として私の目の前に再び差し出され、そしてそれを契機に、病に倒れた三人が三人三様の仕方で私自身の運命とか人生観といったところにまで力を及ぼしていくことへのハッとする「気づき」。一つの音楽を契機とした出来事の連鎖の不思議とその神秘。それを単に偶然として片付けてしまうには、私はあまりに敏感過ぎる人間だ、ということをつくづく思う。 もちろん、ある音楽が人に働きかけるとき、それは音楽自体の持つ力であり、それを生み出した人、それを奏でる人の力や哀しみや想念がそうさせるわけである。ある和音の連なりとか、ある展開とか、あるフレーズとか、ある転調。そういった音の有機的な総合体が、受け手の心身と共振し、なんというか心の感動というものを越えた、もっとずっと身体的な揺さぶりを魂の中に呼び覚ます。しかし、驚くべきは、そうした「その場限りの感動」にとどまるだけでなく、時に私のシューベルトのように、ひとつの音楽が水先案内人のようになって運命の扉を次々と押開けていく、その流れにこちらは抗うこともできず、ただただそこに身を任せるしかない。そんな大掛かりな出来ごとすら、この音楽というやつは私に仕掛けてくるのである。 鼻歌混じりにお気楽になんていうわけにはいよいよいかなくなってきた。ぼーっとしながらBGMというのも、こうなるとなかなか難しい。パンドラの箱ではないけれど、一度開けてしまったら、もう後には引き返せない。音楽の持つ、そういう魔性の側面がなんだかこの頃、見えてきてしまったような気がして、それを私は至上の歓びだけでなく、一種の畏れの念と共に受け止めようとしているところだ。 少し前、偶然、発見してしまったところがこれまたグッと来てしまった曲、それはシューマンの「二台のピアノのためのアンダンテと変奏曲」というもの。今のところ、これはまだ、ただただ私の心に切ない働きかけをしてくるところでとどまっているけれど、シューベルトの即興曲のように、いつしかこの曲もまた、私の人生そのものにぐらっと大地震のような揺さぶりをかけるだけの大物に育っていくのだろうか。グッと来ること自体、すでにそうした「展開の予想」をはらんでいるようで、それが今の私には少し、怖いような気がする。白粉の粉をぱたつかせ、ふんだんな香水を振りまきながら宮廷音楽に耳を傾けていた大昔の王侯貴族のように、こぎれいなサロンで呑気にきれいな音楽を慰みもののように「鑑賞」しているだけのほうが、ひょっとして、人間て幸せなんだろうか。宮廷音楽だけでは到底満足できないややこしい人間に生まれついてしまったことを、少々重く感じるここ数日ではある。
by michikonagasaka
| 2012-10-30 08:06
| 考えずにはいられない
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