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序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2013年 01月 02日
![]() 喪中につき、新年のご挨拶は控えさせていただくとして、旧年中、地味な拙ブログを訪れてくださった多数のみなさまにこの場を借りて心より御礼申し上げます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 喪中といえば私には、3月に逝去した父にまつわるある種の悔いというものがある。今年最初のブログ記事に、思い切ってその「悔い」のことを採用してみることにした。 18歳で親元を離れて以来、父と同じ屋根の下で暮らすことは二度とないまま、棺の中のその姿に最後のお別れをしたのが昨年の3月。教会の祭壇脇に横たえられたその棺の、ちょうど父の足下のあたり。葬儀ミサが始まる直前、その目立たない場所に、私は自分が書いた小さな本を一冊だけ、おずおずと置いた。彼に贈呈した最初で最後の「自分の仕事」である。 神楽坂生まれの父は、骨の髄まで東京人で、だから人生の多くの時間を赴任地の名古屋で過ごしたにもかかわらず、言葉も味覚も、そして気質も、決して名古屋に染まることはなく、最後まで東京人のままだった。べらんめえ口調でズケズケとものをいう人だったその父がよく口にしていた十八番の台詞にこんなものがあった。 「娘の結婚式で泣く親父なんざぁ、気色悪くて見てらんねえ」 「ヴァージンロードを娘と腕組んで歩いて涙ぐむぅだとぉ? なにいってやがんだ」 「悪趣味だねぇ」 まだ私自身が結婚の「け」の字も夢想していなかった時代からそれが彼のお得意の悪口のひとつで、そしていざ、パリ郊外で行なわれた娘の結婚式に臨んだ父は、英語で立派なスピーチこそすれ、感極まって涙ぐむなんてことはこれっぽっちもなく、終始にこにこ顔でその日を過ごした。 父や母の「影響下」から一刻もはやく独立して、自分で好きにやっていきたいという願望の強かった娘は、けれど今にして思えば、父のそんな江戸っ子的な「照れ」の気質をいやというほど受け継いでいた。 そしてその「照れ」のせいで、私はついぞ、自分の仕事について父に語ることをしなかった。 どうせ私のやってることなんて「くだらん」と一蹴されるに違いない、という怖れもそこに加わり、だから22歳で東京の出版社に就職し、28歳でパリに移住し、その後、世界を転々とする放浪人生を続ける中、私は父に自分の書いたものを「こんなことやってるのよ」とお披露目するわけにはどうしたっていかなかったのだ。 「あいつは何やってんだぁ?」 ふと、思い出したように遠くに住む娘の生業について、父はそんなふうに母に尋ねることもあったらしい。尋ねられる母とて、なにしろ私からはなにも聞いていないわけだからまともな答えはできるはずもないが、それでも断片的なインフォメーションをつなぎ合わせ、「道子はなんでも雑誌の仕事をしているらしい」「エッセイなんかを書いているらしい」「◯◯とか◯◯にインタビューもしたらしい」などと、適当に答えていたようだ。 米国留学したり、後にはボストンの大学で教えたり、世界各地で開催される学会に参加したりして、西欧人の友人知人も少なくなかった父とはいえ、さすがに大正生まれの日本男児である。それも江戸っ子である。いくらなんでも娘に「ときにお前は何やってんだ? たまにはオレに報告しろよ」なんてことを口にできるはずはない。いや、そもそもそのような興味すらあったのかどうか。 聞かれもしないものを、こちらから「ねえ、お父さん、実はね」などといえるわけもなく、せいぜいが仕事を通じて培った(?)自分の趣味を強引に押し付けるような形で、父の日にちょっと上等のマフラーだのセーターだのを送るくらいが関の山。だから最後の最後まで、私は父と自分の仕事のことを話すことはなかったのである。 逝去の知らせを受け、とるものもとりあえず日本行きの飛行機に飛び乗る直前、そんなわけで私はありったけの勇気を振り絞って仕事部屋の隅っこに数冊積んである自著の中から一冊を選び、それをスーツケースの中に入れた。12時間のフライトの間、どうしようかな、どうしようかな、とうじうじ迷っていた気持ちをそのまま引きずった状態で私は成田エクスプレスに乗り、新幹線に乗り継いで、父の遺体が横たわる実家へと到着した。 こんなことにこれほどの葛藤を覚えるとは一体何事だろうかととあきれかえりつつ、いや、まさにこの葛藤こそが「照れ」との対峙であり、またその克服の作業であることをつくづくと思い知った。そして結局、私はなんとか今回に限って「照れ」を克服したのだった。 「以心伝心」とか「言わぬが花」という美意識にかなりからめとられている私ではあるが、それでも20年余りの欧米暮らしの影響は多大だった。 「言わなきゃ伝わらない」ことというのは、やはりたくさんある。「照れ」の呪縛から少しずつ、ほんの少しずつ解き放たれて、この頃やっと、私は大好きな人たちに「大好きだ」というようなことを(いや、正確にはもう少しぼやかすわけだけれど)なんとか口に出来るようになった。 女友達がいつもよりさらにキレイなときには、「今日、◯◯さん、とってもキレイじゃない」ということもできるようになったし、男友達がチャーミングに感じられたときには「素敵だね」といえるようになった。美味しい料理をつくってくれた人には、「これとっても美味しい」といえるようになったし、本を書いたり、絵を描いたり、音楽を奏でたりする人たちにも、自分が「いい」と思ったときはそれを言葉にして口に出せるようになった(でも「いい」と思わなければ、まさかお世辞で「いい」とは到底言えない性分、相変わらず←これがフェアリーテールを店じまいした多数の理由のひとつでもある)。そして、辛いときに優しくしてもらったり寄り添ってもらったりしたときには、その感謝の気持ちを言葉を尽くして表現できるようにもなった(と思う)。 すごい進歩だと思う反面、この進歩があと10年早く遂げられていたのであれば、父とももっといろいろな話ができたのだろうに、と、そのタイミングのあまりの遅さを今頃になって悔やんでいるのである。 10年以上前に父が書き始め、結局、書き終えないまま絶筆となってしまった原稿がある。執筆中のその原稿を、ある日、帰国中の私に父が手渡した。 「これ、読んでみてくれないかい?」 「え・・・・・・・・?」 「どぉもオレはなぁ、文章がうまくねえんだな。だからお前にみてもらおうかと思ってな」 「照れ屋」の父が、そんなことをいったのはたぶん初めてだ。だから私はなんだかどぎまぎしてしまった。どぎまぎしながら、けれど手渡された原稿を丁寧に読んだ。そして読後、おこがましくも、「ここをこうしたほうがいいんじゃない」というようなことをいくつか言った。 その後間もなく、父には認知症の症状が現れるようになった。ライフワークともいえそうな意欲と熱心さで取り組んでいた原稿だったのに、キーボードに触れることが次第に億劫になり、頭を鋭敏に働かせることが次第に「大きな努力」になり、そして自分の書いた内容を記憶して、先を続けていくようなことが、たぶん、不可能になった。 そのさらに数年後、そういえばあの原稿はどうなったんだろうと気になり、思い切って父に尋ねた。母が不在だったので父と二人、近所の店にトンカツを食べにいったときのことだ。 「ああ、あれか? あれはもう出版されたよ」 「え、そうなの?」 合点がいかなかったが、その話はそれ以上追求しないで打ち止めにしておくことにした。 母に「持たされて」いつも財布に入っていた一万円札で、父は食事の勘定を払ってくれた。 「お父さん、いいよ、私が払うよ」 そういう私に、 「まあそぉ遠慮するなって。これくらい親父に出させろ、遠路からはるばる娘が来てんだから」 といって父は嬉しそうに相好を崩した。 「そお? じゃあ、ごちそうさま」 父にトンカツをご馳走になったことが、私には正月とクリスマスが一緒に来たくらい嬉しいことで、帰り道もなんだか一人でにたにたしてしまう。 あとでこっそり母に確認してみたところ、もちろんその原稿は出版などされていなかった。父の記憶が混濁していただけのことだったのだ。 以心伝心の粋(いき)。率直で気前のいい言葉の威力。その両方があればこそ、人を愛しく思う経験がもっともっと豊かになる。大正や昭和の東京にではなく、平成のスイスに暮らしながら、取り戻せない時間を悔い、そしてその二の轍(てつ)を踏まぬよう、今年も精進し続けねば、と思うのである。 2013年の最初の日が、そんなふうにしてともかくは無事に過ぎた。
by michikonagasaka
| 2013-01-02 18:07
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