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序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2013年 01月 31日
![]() 東京新聞のこんな記事を読んで、ああ、また、と、格別驚きはしなかったけれど、でも朝っぱらから暗い気分になった。そして、こういう報道がメインストリーム媒体にはまず滅多なことでは出てこないということも改めて痛感した(なぜなら、朝日もNHKも日経も、これは完全スルーだったので)。 そこから突然話は飛躍して、今回、私は自分が人を眺めるときに一種の「踏み絵」として自らに課している基準というものについて書いてみようと思い立った。 その「踏み絵」というのは、例えばの話、今、私たちがナチスのドイツにいたとして、いや、ドイツじゃなくてもいい、ポーランドでもオランダでもフランスでもどこでもいいのだけれど、そのとき、我が身を守るために隣のユダヤ人を当局にチクるだろうか。積極的にチクるというところまでいかないにせよ、黙りを決め込むだろうか。それとも、なんとか身を挺してそのたった1人のユダヤ人をかくまったり、逃したりというリスクをとるだろうかーーという「想定」をかけてみるのである。 もちろんこれは単なる比喩であって、別に相手はナチスドイツじゃなくてもいいし、かくまう相手もユダヤ人じゃなくてもいい。状況も戦争という「特殊なもの」である必要はない。 ここぞという局面において、内なる声に正直になれるだろうか。どう考えてもこれはおかしい、よくない、とその内なる声がささやいているとき、たった1人の隣人、たった1人の家族、たった1人の友人のために一肌脱ぐ勇気を持ち得るか、たとえそれが重く面倒な状況であったとしても。そう、それが私が自らに、そして出会う人相手にこっそり課している「私的踏み絵」なのである。 「汚染水、海へ放出検討」の影には、無数の「踏み絵」テスト失格者の姿が垣間見える。「う〜ん、これはマズいんじゃないか」と思いつつ、けれどそのかすかな疑いにはすっぽり覆いを被せて、(自分や、自分が属する組織にとって)無難で日和見的で保身的な判断をくだす、そういう無数の人々の顏のない顏が見えてくる。 困ったことにそうした無数の人々の多くは、最高学府出身の国のエリート的な人たち。無知蒙昧の庶民が犯す「過ち」と、エリートが犯す「過ち」との間には、同じ過ちとはいっても、質的な、そして責任という上での根源的な違いがある。一生懸命受験勉強して受験戦争に勝ち抜いて東大や京大みたいな学校に行く人々は、入学試験や就職試験だけでなく、私が勝手に想定するささやかな私的踏み絵にも合格してもらわなくちゃ困るのである。 とはいえ、かくいう私だって、別に高邁な理想とか高い倫理観などというものの上にあぐらをかいて暮らしているわけでまったくない。弱虫で意気地のない情けない人間の1人に過ぎない。そして構造上の病、あるいは危機的状況における人間の「機械の部品化」「猛獣化」、そういう人間の性についての認識も、一応人並みには持っている。 けれどね、「まあ仕方ない」とスルーする、臭いものには蓋をしてその場しのぎで流していくというのが、やはりいただけない、と思うのである。それ、卑小じゃん、と感じるのである。スルーする一人一人はほんの小さな粒に過ぎないけれど、それが集団のうねりとなる、そういうモメンタムを未然に防ぐのは、政治家でも社長でもなく(まあ、それも一助にはなるけれど)、やはり小さな粒一つ一つ以外にない、というふうに思うのである。 東電の社員だって、その多くはよきパパだったり、よき夫だったりするんだろうと思う。霞ヶ関のお役人たちも、心底腹黒い人はそんなにいないだろう。NHKや朝日新聞にも、良心のかけらは山ほど転がっていることだろう。 お国の一大事というハイレベルな場所でなく、私たちのまわりのささやかな日常の中にも踏み絵的局面は無数に存在している。私一人がこんなところで躍起になってみたところで、もちろん何一つ変わらないのだけれど、自分の矜持というただその一点だけのために、私は私の踏み絵を自らに課し続けていく後半生をやっていくしかない——加藤周一氏の小説「ある晴れた日に」、そしてフランクルの「夜と霧」を旅のお供にしながら。
by michikonagasaka
| 2013-01-31 20:07
| 考えずにはいられない
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