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序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2013年 04月 20日
![]() 「文章を書くときと、それは同じだと思いますよ」 昨日のピアノのお稽古で先生がそうおっしゃったとき、ああ、そうだ、本当にそのとおりだ、と、先生の意図が(たぶん)100パーセント理解できたような気がした。 もう三ヶ月くらいだらだらとひきづっているチャイコフスキーのその曲で、今にして思えばとても鈍感な仕方で、ある箇所を私は弾き飛ばしていた。「弾き飛ばす」、要するに大変予定調和的に、乱暴に、無意識に、「普通、こう弾くでしょ」というフレージングをやっていた。それも何度も続けて、同じように。 何一つ聞き逃さない先生、当然、そこにチェックが入り、「常套句的に弾くのはよくない」という指摘をされた。続いて冒頭の台詞が放たれた。 文章において常套句ほど空疎なものはない。決まり文句でごまかす瞬間、そこには何ら個人的な想いもなく、思考は停止、探究心も研究心も美意識も、すべて白紙に戻される。ただ「流している」とき、書き手はこの上なく怠慢で、そんなふうにして紡がれた文章が人の心に響くはずもない(とはいえ、常套句ならではの「わかったつもりになる」状態に甘んじる読者の場合は、皮肉なことにそんな空疎な箇所にこそ膝を打ったりするものなのだが)。 それとまったく同じことを私はしょっちゅうピアノでやっている。これが文章であったのなら、「ん?」とその箇所で踏みとどまって、なんとか常套句を回避しようと試みる。似た言葉、同じような表現をただ無造作に繰り返すというようなことは努めてこれを避けようとする。なのにピアノを弾く時は、そのような鈍感なことをひっきりなしにやってしまうのみならず、先生に指摘されるまで自分ではそのことに気づきもしない。 なんて鈍いのだろう、なんて無頓着なのだろう、と、うんざりする。 そういう部分の敏感さというのは、おそらく天性のものと、訓練によるものの二本立てで備わってくるものなのだろうが、まずはその天性の部分において、当然ながら、自分はなんて凡庸なのだろうかということを、レッスンのたびに痛感する。訓練のほうはといえば、もしかしたらほんのわずかずつは敏感さが鍛えられてきているようにも思うけれど、そんなものは亀の歩み以外のなにものでもない。のろまな亀の歩みで地球を一周しようとするような、それほど到達したい地点と、自分の地点とはかけ離れていて、そしてほぼ肉眼では認識できないくらいの「遅さ」でその長く険しい道を進もうとしているのである。 レッスンのときに先生に教えてもらうことは、どれもこれも目からウロコで、わ〜すごい、と感銘受けっぱなしなのだが、だからといって、受けた教えをいちいち頭で理解してそれをどこかにインプットする、というようなもんでもない、とも思う。ましてやノートにメモ書きして頭に叩き込むというようなものではなかろう。 たぶん、もっとも肝心なことは「音楽を感じる感受性が育つこと」。自分で「感じる」ことができさえすれば、そこで思い描く「こう奏でたい。こう歌いたい」を目指して脳と体が動こうとするだろう。先行するイメージがあれば、それを表象させるべく、練習の中身も質も自ずと変わってくることだろう。不感症のまま、手先をいくら訓練したって、そんなものは何の役にも立ちやしない。 天性の部分は諦めるとして、せめて「訓練」の部分をもう少しなんとかできないものか、とつくづく思う。常套句を使ってしまうことに、「あ、いやだな」とアレルギー反応を起こせるくらいの敏感さはなんとか自らの内に育って欲しいものだと渇望する。そうはいってもディシプリンに圧倒的に欠ける怠け者の私のこと。うまくいかないと、すぐに「もうや〜めた」と投げ打ってしまうこの性分が、ものすごい足かせとなる。 あ〜あ、そうはいっても、音楽とはこれ、至上の悦びであることには変わりない。心が天の高みへと引き上げられる感じとか、切なさや哀しみの情感のうねりを喚起されるときとか、ひとりでに笑みがこぼれ落ちるような感覚とか、お腹の底で歌っているような気分とか。そういうことのすべてが、私にとっては幸福の断片であること、生の悦びであること、これだけは間違いのない事実。 そうであればこそ、遅々として進まぬお稽古にも、なんとか真面目に通い続けるのである。 「最近、どう、ピアノのほうは?」 そんなふうに友だちに聞かれ、 「う〜ん、なかなかね、変わりばえしなくって」 というような返事しかできないでいるけれど、でも楽しいからやっぱりしばらくは続けてみよう。ピアノ大好き、音楽大好きーーーと、子供みたいな単純な愛の表現しかできなくて、それは紛れもなく常套句的なのだけれど、でも、思考停止、感覚停止の常套句でなく、確信犯的、意図的な常套句であるならば、それはもちろん許されること。単純さに宿るあっけらかんとした、裏表のない愛というのも、これまたいいもんじゃないだろうか、などと最近は思ったりもしている。
by michikonagasaka
| 2013-04-20 04:48
| ピアノのお稽古
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