序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2013年 09月 12日
ナイジェリアで暮らす若い友人Aちゃんからの現地報告が実に興味深い。先日は、地元のスラム街を見学したリポート。力強い写真に添えられた直球コメントがあまりに正直でけれんのないものであったことに私はいたく感動した。以下、本人の許可を取った上で一部を引用させていただく。(青字=Aちゃんの言葉) スラムの一つであるマココ地区を見学。あるNGOのスタッフたちが案内してくれて、安全に見学できた。彼ら曰く、その地域では、記録に残るような犯罪はしばらく起きていないそう。それが犯罪が抹消されているという意味なのか、本当に平和なのかは不明(笑)。 たったの3時間ほど、地元の人の案内でスラムの路地を歩き回ったり、水上のあばら小屋で暮らす人々の暮らしをボートから眺めただけでは本当のことは何もわからないが、人々の表情や様子から受けた印象は、「生活は大変そうだけど、なんかみんな楽しそう・・・」。 つい最近、日本ユニセフ協会大使のアグネス・チャンが同じくラゴスにあるスラムを視察して、「厳しい生活の中の人間の強さと優しさに感激した。人々は過酷の中でも笑顔、助け合いをして居ました。凄いです。感動しました。(一部抜粋)」とブログに書き、一部のネラーから「脳内お花畑」とか「貧困を美化するな」など叩かれていたのを読み、私もちょっとそう思ったのだけど、実際自分がその深刻な貧困と汚染に蝕まれているはずのスラムを見学してみて、彼女とたいして変わらない感想を持ったのが、遺憾ながら興味深かった。 さて、私が彼女の簡潔な報告に触れたときに、一体、その何が琴線に触れたのか、ということを今回はちょっと考えてみたい。 ご存知の方も多くいらっしゃると思うが、私は昨年末まで、スイスでささやかなフェアトレードの事業を運営していた。フェアトレード(公平貿易)とは、発展途上国で作られた作物や製品を適正な価格で継続的に取引することによって、生産者の持続的な生活向上を支える仕組み。より具体的には、児童労働や過酷な労働条件といった搾取的な取り引きを排し、生産者から最終消費者までへの過程に包み隠しのない透明性を徹底させ、さらに(副次的に)環境への配慮をも怠らない。そうした発展途上国との貿易関係のことである。 商売のイロハも知らない私が、好き好んでフェアトレード事業を立ち上げたからには、当然、それなりの思いがあったわけで、それを今頃になってごくシンプルにいうならば、上から目線でないタイプの何かを、この世にはびこる貧困や不正という分野でちょっとやってみるのもいいのではないか、というところだっただろうか。 上から目線でない、という点、これは実は私にとってはかなり大きいポイントだった。 今、世界ではシリアの騒ぎに軍事介入するか否かというようなことが話題になっているけれど、こういう出来事が起きるたびに私は実に居心地の悪い思いにとらわれる。 元はといえば好きに植民地化しておいて、その後は民主主義やらその理念やらを宣教師よろしく世界に広めようという表の顏と同時に、武器を売ったり、石油その他の資源確保のために時の独裁政権と手を組んだり、ということをしてきた、実は誰もが知っている欧米諸国の態度と行動の歴史。そうした文脈の中に、発展途上国への開発援助というものをみるとき、非欧米人である私は、欧米諸国に長年暮らしつつも、どうも自分はどっちかっていうと発展途上国側(南半球側といってもいいが)に心理的な親密感を抱いているらしい、ということに気づかずにはいられない。欧米諸国の教会やNGOたちの取り組みの多くは、いわゆる善意から出ているものであることは間違いない。けれど、たとえそれが善意のかたまりであったとしても、それは施すものと施されるものという上下の関係であるという側面をなかなか免れられない。そこのところがどうにも居心地が悪いのである。 こんなに貧乏で可哀想ーーそれはもちろんそのとおりなのだけれど、その「可哀想」というところに100パーセント共感できないひねくれ者の自分がいる。貧乏に伴う家庭内暴力や虐待、教育の欠如による無知や憎悪の増長。そうしたことが「いいこと」であるはずはもちろんない。 けれど、だからといって「与えること」そのものにあっけらかんと無邪気に自己満足するのも、これまた皮相すぎやしないか。 などということを発言すれば、上記、アグネス・チャンのコメントのように、世間から非難囂々ということもあるだろう。 フェアトレード的なアプローチがそれでもまだ「マシ」と思ったのは、実はそのへんに理由があったのである。施しでなく、同等のパートナー契約を結ぶ、していただいた仕事に対し、相応の報酬を支払わせていただく、というその「お互い様」の感じが、個人的にピンと来るものだったのだ。 列強(←懐かしい言葉)の植民地支配という歴史とその負の遺産。世界地図を眺めたときに、経済的にも文化的にも言語的にも政治的にも、単純化をおそれずに言うならば、白人組の優勢は少なくともこれまでのところ、論を待たない。民主主義という発明が、まあ、どちらかといえば「まだマシ」なものであるというのはたぶんその通りだけれど、押し付けられた民主主義のもたらす悲劇を私たちはいやというほど見てきた。 「アラブの春」を誰よりも喜んでいたのは、彼ら白人組であった。「ほらね、やっぱり私たちの価値観には普遍的な善があるんだよ」という希望的思考を、それは心地よくコンファームしてくれるような出来事であったから。けれどそれがうまく行かなくなると、軍事介入という切り札が出て来る。しかも今回のそれに関しては、(米国に関して言うならが)「介入に伴う膨大な軍事費については(納税者のみなさんは)ご心配無用。サウジアラビアがスポンサ―になってくれるので」などということを一国の長が明るく発言する始末である。スポーツイベントじゃないんだから、スポンサーなどというボキャブリーは軽々しく使わないで欲しいし、代理戦争のような構図を是認するような発言(というか発想そのもの)も勘弁願いたいところだ。 そして、ふと思うのだ―—―上から目線に対する私個人のアレルギー反応は、もしかしたら白人組の世界に(非白人の私が)長く暮らし過ぎた、ということにも多少、その原因があるのかもしれない。 貧困はまあ歓迎することではない。けれど、たぶん、もっとよくないのは教育の機会が与えられないことかなあという漠然とした思いはそれでもある。人間は学びたい動物である。どんな人にだって、知らないことを知る喜びはあるし、できなかったことができるようになる喜びもある。デマゴーグや世評、ステレオタイプに惑わされず、自分の頭で考える力をつけること。それこそが教育の最終目標なんじゃないか、ということを、この頃、強く思う。 話があちこち飛んでしまった。Aちゃんのコメントの何がよかったか、というと、そこに上からの目線がまったく感じられなかった点。彼女の撮る写真にも、そのことはしっかり現れていて、猫も杓子もi-Phoneでそこそこの写真が撮れる時代にあっても、撮る人の思いという部分こそが大きな差異になり得ることを改めて実感。それも思いがけない嬉しい出来事だった。 最後にAちゃんのコメント中から一節をご紹介。 とある調査では、ナイジェリア人の楽観主義は世界一だそうで、それはもしかしたら、インフラ整備よりも教育よりも、幸せになるための一番の要素なのかもしれない。 しつこいようだが、「教育」はやはりあったほうがいいと思うものの、開発援助のインフラ整備に関しては、私もAちゃんの意見に賛成!
by michikonagasaka
| 2013-09-12 19:14
| fairy tale & サステイナブル
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