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序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2014年 01月 06日
![]() 明けましておめでとうございます。拙いブログを読んでくださるすべての方に、新年のご健康とご多幸をお祈りしつつ、2014年、最初の記事は、読書の話です。お付き合いくださるもよし、(内容が内容なだけに)スルーされるも無論よし。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 杉本秀太郎文粋という全6巻からなる美しい書物がある。この第一巻、「エロスの図柄」と題されたものは、ボードレールの「悪の華」にはじまり、画家のフロマンタンとその唯一の小説「ドミニック」についての数章をへて、メーテルリンクの戯曲「ペレアスとメリザンド」へと流れて行く。最初からきっちり読むことをしないで、むしろ偶然に開いたページからなんとなく一段落と感じる地点までをお行儀悪く拾い読む、というのが、この書物にはふさわしいように思われ、またそう思うことで「読破」という、あの重苦しい呪縛からもすっかり自由でいられるのが、とてもいいのである。 さて、その「ペレアスとメリザンド」からの自然の流れであるかのようにして、ドビュッシーについてのあまり長くない数章が登場する。ごく乱暴にいってしまえば、そこで杉本氏は、この作曲家をモネに代表される「印象派」の枠組みで片付けてしまおうとする潮流に対して異を唱えているのである。そして、その一つの例として、二巻24曲からなる「ピアノのための前奏曲」の中の第一巻の二曲目「 Les Voiles 」が取り上げられている。 これは私も、少し前に練習したことがあって知っている曲だったので、俄然、親近感を覚えて一気にその箇所を読む。 ピアニストのコルトーをはじめ、この Les Voiles という題名が、「(船やヨットの)帆」であると解釈するのが圧倒的主流である中、例外的にこれを「 ヴェール」と解釈しているものがある、と氏はいう。それはミッシェル・ベロフ演奏の「プレリュードⅠ・Ⅱ」のレコードに伏せられた柴田南雄の解説。以下、その解説部分をここに引用しておこう。 面紗で顔をおおったアラビアの女たち、彼女らの行き交う姿や会話、中間部の五音音階はそこの土地の風物か、そこにちん入した一人の少年像ともとれる。そのほうがヨットの帆や、それを揺らすそよ風よりもはるかに曲想に合う。しかしまた、こうも考えた。ヴェールは調性へのヴェール、つまり調子の明瞭さを覆い、曇らせる意味で純音楽的に選ばれた題ではあるまいか。また、そういう音楽を生み出した作曲者の心的状況を説明するのではあるまいか。 この引用に続き、以下は杉本氏自身の言葉。 ……柴田南雄はさらに末尾の添え書きよりも譜面中に見いだされる演奏指示語のうち、最初の楽想(第9小節)の très doux(きわめて甘美に)、第22小節の très souple(充分しなやかに)という指示、および曲の冒頭にしるされているDans un rythme sans rigueur et caressant (枠にとらわれない、愛撫のリズムで)という指示に注目し、「ひどく人間的な、女性の肢体をさえ連想させる言葉づかいである」と書いている。 白状すると、この解説をよんだとき、私はうれしさに胸がおどった。かねてひそかに考案していたこの曲の自己流の解法が、どうやら見当違いではなさそうな気がしたからである。「前奏曲・第一集」の第二曲は、私にはボードレールの詩「異郷の香り」に対するドビュッシーの音楽的註釈であるように思える。 この詩は恋人との濃密な交情のあと、胸の動悸をしずめるべくうつ伏せにまろび伏している「私」によって歌われる体裁をとった艶詩であり、中国の詩でいえば、「楊柳枝」というジャンルに属するような作品である。「前奏曲・第一集」の12曲中には、「4つの目のあいだ」でしか弾くべきではない曲が含まれている、とドビュッシーは人に語ったことがあるそうだが、その曲の少なくともひとつは、第二曲にちがいない。(以下、略) この箇所を読んだとき、私もまた嬉しさに胸が躍った。コルトーの註釈をはじめ、解説書の類いをいっさい読んだことがなかった上に、なまじフランス語を半端に知っているために、この曲の練習をはじめたときに、私は題名を、なんの疑いもなくヴェール(の複数形)と理解した。また曲中の指示も、文字通り読んだから、すべては甘美な衣擦れの音、そしてそこから連想される色香に満ちる情景というイメージへと誘うもの以外のなにものでもなかった。勝手になにやら色っぽい気分になって、実にうっとりとこの曲を練習していたことを今でもよく覚えている。 ![]() 実は杉本氏は、先に引用した箇所に続けて「これは男性的でしかあり得ない音楽、つまりファウヌスの情炎の挿話、本質的に男性的な欲望充足の物語である」と書いている。甘美な衣擦れをイメージしていたのに、いきなりファウヌスの情炎の挿話、といわれて私も少々面食らったが、まあそこは解釈者自身の性別が必ずや大きく関与しているであろうから、彼は彼、私は私、ということで納得しておこう。 そのファウヌス云々、男性的な欲望充足の物語、という文脈で、杉本氏の解釈はなお、より具体的、絵画的になって続いていくが、最後にこれを作曲したときのドビュッシーの微妙な心情にまで想像を馳せる。 譜面末尾の(.....Voiles)は、確かに「帆」ではなく、身をやつし、本性を隠すための「ヴェール」であった。ドビュッシーはこの曲のあまりの放埒さに我ながらあきれ、たしなみというものを思い出して、これにヴェールをかけた。しかも幸運なことに、「異郷の香り」は、このソネの第三連の二行目(Je vois un port rempli de voiles et de mâts)に、まさに「帆」という語を含んでいるではないか。掩蔽(えんぺい)は、じつにうまくいったのである。 それでもドビュッシーは、柴田南雄の注目したあの演奏指示によって、わずかに本心を見すかされるままに残しておいた。このすき間からの風景があたえる衝撃は、当然ながら「前奏曲集」の他の曲にも波及する。ドビュッシーを聞く楽しみ、というよりもドビュッシーとわれわれとのあいだをつなぐ楽しみは、ようやくはじまったばかりという気がする。 ことの真偽はどうでもいいのである。ドビュッシーが本当にそんなことを考えていたかどうか、つまり本当に、「隠しつつ、ちょろ見せをせずにはいられなかった」かどうかは実際、どうでもいいのである。ただそのような想像の余地があるということ、そしてその余地で遊んだり勝手なお絵描きをしたりする楽しみ、という解釈者(鑑賞者でも演奏者でも)の悦楽のほうにこそ、私の注意は喚起されるのである。 それにしても、新年早々、こうして膝を打つ読書体験に遭遇したことは、やはり幸せなことであった。ちなみにこの本、昨年、とある友人がその一節を某所で引用していたことから存在を知ることとなり、早速、アマゾンに行ったところ、絶版とかで古本でしか入手できなかった。アマゾンで古本を買うのは初めてだったけれど、全6巻のこれを思い切ってポチ。電子書籍の勢いが増す一方の昨今、かさばる単行本の全集ものを古本で買うという行為は、なるほど時代に逆行しているであろうけれど、まあいいとしよう。本というオブジェについて、内容が第一である場合がたぶん一番多いけれど、ときには装丁とか紙、そしてそれをただ、所有するという点にもまた大いなる価値を感じてしまう、そういう(ある意味、典型的な)ビブリオファイルの側面が自分には間違いなくあることを昔からよおく知っているので。
by michikonagasaka
| 2014-01-06 21:46
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