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序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2014年 02月 07日
![]() もう今さら、私がことの経緯をくどくど紹介&説明する必要もないだろう。それほどまでに、今回の「ゴーストライター事件」は、わずか数日の間に日本全土を席巻し、その余波は日本の外にいる私のところにまで及んだ。ニュースその他、動画というものをあまり見ない私は、実は今回の記者会見すら見ていない。佐村河内守氏のゴーストライターを18年にわたって続けてきた新垣隆氏の会見での言葉は、文字という形で読んだだけである。 「全聾の作曲家・佐村河内守」というストーリーを拡大喧伝したメディアの罪が糾弾される。それと共犯者的関係にあった興行プロデューサー、CD会社をはじめとする「クラシック音楽業界の体質」が糾弾される。佐村河内氏の倫理が糾弾される。さらには、本人を個人的に知る人が口をそろえて「いい人だ」「金銭欲、名誉欲というものが一切ない純粋な人だった」という新垣氏の、音楽家として、あるいは人間としての矜持について疑問が投げかけられる。 今回の一件は、ソチ・オリンピックで高橋大輔選手が佐村河内守氏作曲とされていた曲「ヴァイオリンのためのソナチネ」をショートプログラムの演技に採用することになっていた、という、非常にタイムリーな「話題」があったため、「新垣氏のカミングアウト→記者会見→大騒ぎ」という事態に急展開したという側面を、まず、見逃してはいけないと思う。 「このくらいなら構わないだろう」というところから、人はズルをしたり、非道徳的な行いに手を染めたりするものである。「バレなければいいだろう」という自らへの執行猶予をどんどん延長して、それは、内容とスケールを次第に拡大していく。どんな人にも当てはまる、人間心理のごく一般的な法則である。純粋に「倫理的」側面にたっていうならば、悪行はそのスケールにかかわらず、最初の一滴から、すでに悪業である、ということがいえる。南京大虐殺の犠牲者が何人かというところがポイントなのではない。一人でも虐殺したのならば、それはもう立派な虐殺なのである。原発は「ほぼ安全」というのは、「絶対安全」とは雲泥の差がある。ましてや、そこに関係者同士のいろいろな利権や癒着がかかわっているのであれば、「知っていることにフタをするすべての人々」は同様に罪深い。 クラシック音楽界における、この「スキャンダル」について、いきなり大上段な話を展開することに対しては不快な思いを抱く方もおられると思う。けれど、もぐらたたきをいくらしたって、もっともっと深いところを考えない限り、人間は決して「まし」にはならないということを、私は、自らのささやかな経験から、また、人類の歴史を浅薄ながらも俯瞰するところから、どこかで信じているのである。 ゴーストライターということに限っていえば、率直にいって、そんなものはどこの業界にもあふれかえっている。かくいう私ですら、ゴーストライター的な仕事を打診されたことは、一度ならずある。そのすべてに私はノーとお答えしてきたが、それはなにも高邁な理想の故にそうした、とも言い切れない。強いていうならば、自分の仕事の場所というものを、ゴーストライター市場の中に見いだすことが、あまりにも「性に合わない」という程度のことだった。いわゆる「セレブ」の人たちが世に出す本の、ほとんどすべてはゴーストライターによって成り立っている。ヴァイオリニストの◯◯さん、ピアニストの◯◯さんが出す「自伝」的なものも、そのほぼすべては、著者名として記されている本人が書いたものではないけれど、印税はご本人に支払われ、匿名のゴーストライターはギャラをもらうだけである。 でも本を書くのは彼らの本業じゃないから、まだ許されるのでは、という人もいるだろう。今回のことは、本業である作曲の分野での出来事だったからよくないのであって、これが余業の分野だったら、それも大目に見られるのでは、と。有名タレントが、ゴーストつけて本を出版したって、まあいいんじゃない、そのくらい、別に、と実は私も思う。だって、どうせ、そんなの一目瞭然なんだから、喜んで本を買う人だって、そのこと承知しているでしょう・・・・・とは、だが、いえない。たぶん、多くの人は、そのことを案外承知していないだろうから。 今回、メディアを、業界を、そして主役の二人を含め、この企みに関与した人々を責める声がかしましい。それぞれ一理あるので、まあいいとしても、では、そうやって声高に誰かを糾弾しているあなた自身は、たとえば、本を買うとき、コンサートに行くとき、映画を見るとき、買い物をするとき、レストランに行くときに、「作られた評判」にやすやすと乗っかってはいないのですか、と、そう本当は質問したい。 何事においても自分だけの鑑識眼、自分だけのセンサーを頼りにするのは、非情に難しい。芸術作品も商品も、「世間の評判」「付加価値的ストーリー」「セレブの誰それが愛用している」「◯◯コンクール一等賞」「美人ヴァイオリニスト」云々といった枕詞を抜きにして、純粋に中身だけで好きになったり、購入したりということは、よほど自分の感性に信頼がなければなかなかできることではない(ここで私は「自信」でなく「信頼」という言葉を敢えて使う)。そうして人は、枕詞でものを選び、結果、肝心の中身をほとんど見ていない、聞いていない、という状態になる。にもかかわらず、「◯◯という行為をした」という部分でささやかな幸福を得たりしているものなのである。 大昔、雑誌の編集の仕事をしていた時、自分たちであおっておきながら(それは認めよう)、しばしば、私は「読者があまりに素直にそこに書かれていることを鵜呑みにする」という事態に驚愕していた。もう少しさあ、こう、疑うとか、差し引いて考えるとか、ないのかなあ、と、彼ら、彼女らの呑気な素直さに、驚愕、いや、正直にいうならば失望していた。そして思った、これなら煽動とか情報操作とかいうようなことも、その気になればわりと簡単にできちゃうんじゃないかなあ、恐ろしいことだなあ、と。 クラシック音楽は、ただでさえ敷居の高い世界である。その中にいる人たちにはピンとこないかもしれないけれど、外からそれを眺めるのなら、おいそれとは近づけない、うっかりと変なことなどいえそうにない雰囲気を、このクラシック音楽界というところは世界中に向けて噴水のように振りまいているのである。そしてそれは一般人を遠ざけ、クラシック愛好家たちを妙に衒学的にしたり、虚栄的にしたりする。 なにしろ、音楽、とりわけクラシック音楽というのはもっとも抽象的な形態の芸術だと私は思うから、それはとっつきにくいのは無理もない。いくばくかの事柄を「知っている」ことが鑑賞の手助けになることも、当然論を待たない。かといって、その「いくばくかの知識」がない人を門前払いするような体質は、やはりいただけないと思うのだ。 いつだったか、気取りのない夏の屋外のコンサートで、普段クラシック音楽にあまり縁のない聴衆が、今、耳にしたばかりの演奏に大いに感動して、一楽章のあとに盛大に拍手をした、という場に居合わせたことがあった。そのときの、演奏家たちの、そして周りの観客たちのあの冷たい視線、そして、思わず拍手をしてしまったその村人たちの困惑した表情というものを私は忘れることができない。(それは、ロシア人ヴィオラ奏者、バシュメットと、ソリスト・ドゥ・モスコウという、評判の確立した奏者たちだったのだが) 私自身は、衒学的でも虚栄的でもない、ごくシンプルなクラシック音楽好きの人間だけれど、あのときの凍り付いた会場の雰囲気は、とてもじゃないけれど好きになれなかった。だからそのとき、私は、演奏家や通の観客たちから離れ、心情的にははっきりと、その村人たちの側にいた。 つまり、私自身が完全に矛盾しているのである。世間の評判に惑わされず、自分だけのセンサーで、本当に心に響くものに反応する鑑賞者でありたい、という、この強い願望というものが一方にあり、そのまた一方で、鑑識眼というものをあまり備えるチャンスのなかった「一般大衆」の、素朴な感動というものを取り上げる権利は誰にもないだろうという思いがある。 ソチ・オリンピック、高橋選手の一件がなければ、この話はまだしばらく表沙汰にならなかったかもしれない。「たまたま表に出た話」に、報道陣が殺到し、カメラのフラッシュがたたかれ、あらゆるレベルの個人がフェイスブックで、ブログで、お茶の間で、このことを話題にする。そして、驚くほどのスピ―ドでまた忘れられていくのである。その虚しいサイクルにこそ、私は虚脱感を覚えるのだ。 どんな悪も最初の一滴からすでに悪である。 けれど人間の弱さというものには、寛大でありたい。 とはいえ、新垣氏を「わかりやすい犠牲者」という構図でのみ片付けることは、あまりにシンプルだ。 「わかりやすい敵」を仕立て上げて、それでわかった気になって、すぐに忘れてしまうこと。そういう単細胞的な思考回路の繰り返しに、あまり進歩は期待できない。 そういうようなことを思った。 けれど、私は、考える人、感じる人ではあっても戦う人ではない。これまた、性に合わないというだけの理由でそうなのだ。この事件があろうとなかろうと、私自身はこれまで通り、目をつむって好きな音楽に耳を傾け、自分の心と五感を信頼して、本を選び、食べ物を愛で、人の手仕事に敬意を払い、自分にとって不要なものには目をくれず、淡々とやっていくだけのことである。
by michikonagasaka
| 2014-02-07 03:07
| 考えずにはいられない
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