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序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2014年 03月 06日
![]() 数日前のオスカーで作品賞、助演女優賞、脚色賞の3部門を受賞した「それでも夜は明ける」。本題のオスカーそのものよりも、個人的に大いに興味をそそられたのが、実はこの邦題だった。 原題は、Twelve Years a Slave。19世紀半ばのアメリカ。もともと自由黒人だったバイオリン弾きの主人公が、ある白人の裏切りによって拉致され、ニューオルリンズへ売られる。1841年から12年間、暴力や屈辱にまみれた過酷な奴隷の身分を強いられながらも自らの尊厳を失わず、12年の歳月を経たところで、カナダからやってきた奴隷制度撤廃の運動家と知り合って・・・・・・というようなお話。監督はスティーヴ・マックィーン。 余計な感情移入や解釈を排し、あえて事実だけを凝縮した原題は、それがシンプル、かつ饒舌の真反対であるがゆえに、非常にインパクトがある。そして、「さてさて、なんだろう」と、この映画をまだ観ぬ聴衆の想像力をかきたてる力もある。それが一転、「それでも夜は明ける」である。 まず、「どこかで聞いたことある」そのデジャヴュ感がいただけない。「日はまた昇る」「それでも生きていく」「それでも恋するバルセロナ」(これはウッディ・アレンの映画Vicky Cristina Barcelonaの邦題)などなど、あっという間に類似品がぞろぞろ思い浮かぶ。二匹目のドジョウの典型的タイトルといえよう。 さらに、「それでも」「夜」「明ける」のどれ一つとっても引き込まれる強さのない、いわば平凡な単語であるのみならず、「夜が明ける」という、日本語学習者の外国人が暗記させられるような常套句を、いかにも不用意にさらりと使っているために、タイトル14文字中、「ん?」と注意を喚起させられるポイントが皆無な点。これもいただけない。 そして、映画の内容、とりわけ、その情緒的な側面をなるべく凝縮しようという意図が透けて見えるところ。原題があれほど禁欲的に「下手な解釈」を排しているのに対し、こちらは配給側(?)の解釈(どんな逆境にも人は希望を見いだしていかなければいけない、それが人間の、生きることの美しさなのである、といったような)をそのまま押し付ける形になっていて、なんだか暑苦しい。粋じゃないのだ。 少し前に観て大いに気に入った英国映画「Philomena」のことをFBにアップしたときに、念のためにと思って邦題を調べたのだが、これまた「あなたを抱きしめるまで」というお粗末なものがついていたので度肝を抜かれたばかり。上記にあげた3つの理由がそっくりそのままこちらにも当てはまるという点に、おそらくは日本における「外国映画の邦題つけ」という営みの伝統というか、因習のようなものが要約されているような気がする。 多くの「名画」の邦題が、実に印象に残りづらく覚えにくいという感想を抱かれた方も多いかと思う。原題とかけ離れていてもかまわない。日本語としてそれなりのインパクトがあり、なにか強烈な印象やイメージを喚起してくれて、なおかつそれが映画そのものとリンクしているなら、もちろんそれはオッケーだと思う。 たとえば、昼顔(Belle de Jour)、勝手にしやがれ(A bout de Souffle)、おしゃれ泥棒(How to Steal a Million)なんかは、なかなかいい。 逆に、私の大好きなJules et Jimが「突然、炎のごとく」だったり、カレン・ブリクセンの名作の映画化、Out of Africaが「愛と哀しみの果て」というのなどは、う〜ん、困ったなあ、と思う(小説のほうの邦題は「アフリカの日々」)。先頃亡くなったヌーヴェルヴァーグの代表選手、アラン・レネ監督。Hiroshima Mon Amourはその代表作の一つだが、これの公式の邦題が「24時間の情事」というのも、やはり腑に落ちない。 * そんなことをぼんやり考えていて、そこからふらふらと連想したことをもう一つ。 外国暮らしも25年余りと年季が入り、多言語環境が当たり前の日々とはいえ、いまだに困ることの一つ、それは中国や韓国の固有名詞だ。 まだ最近のものは、日本のメディアでもカタカナ表記、原語尊重発音などが併用されているため、ああ、キムジョンイルね、と漢字を思い浮かべつつ、カタカナ発音する習慣も多少は身につき、欧米語で話すときは、それを微妙に発音変化させれば大抵はすぐに通じる(カタカナだとLとRの区別がわからないので、そのあたりは適当にごまかす)。ところがこれが歴史上の事柄となると、本当に難しい。始皇帝も白居易も、春秋戦国時代も、蘇州も汕頭も、万が一、そのような話題となったときには、非常に苦労する。第一、たとえ意味はわかったとしても、Chiang Kai-shekじゃあ、どうにも蒋介石のイメージは湧きにくいし、Yang Guifeiじゃあ、なんだかちっとも麗しい佳人には聞こえないではないか(ちなみにこれは楊貴妃)。 * さらに脱線をもう一つ。 昨日、鍼の先生(上海出身の中国女性)とおしゃべりしていた時、彼女は、ご子息のこと、さらには「若い男性一般」についての不満という形で「え〜っと、ほら、なんていうんでしたっけ?」と、しばらく頭の中で単語を探していたが、やがて、そこだけ突如ドイツ語に切り替えて、「Vernunft」という言葉を放った(私たちは通常は英語で話しているが、スイス暮らしの長い彼女は、ときどき英語の単語を忘れてそこだけドイツ語でいう、ということがある)。 「vernünftigってなんだったかしら、英語で? まあいいわ、とにかく、vernünftig な若者もいるけど、全然そうじゃないのもいるでしょう、困ったことに」と私に同意を求めるのである。 Vernunftときいて、そのとき瞬間的に私の脳裏に浮かんだのは、恐ろしくも「純粋理性批判」(Kritik der reinen Vernunft)というかのカントの著作の題名だった。我ながら、そのようなものが記憶のどこかにまだ生きながらえていたこと自体、驚愕だったが、このカントのしかつめらしい「理性」が、ここでは突然、「ちゃんとしてる子もいれば、そうでない子もいる」みたいな話になって登場する。 旧制高校世代の方々が、ドイツ語から翻訳してくださった無数の難解な日本語は、ドイツ哲学やドイツ文学を必要以上に難解なものにしたのだった、ということを、体中に鍼が刺さった状態でそのとき私は唐突に思い出していた。Vernunftもreasonもraisonも、哲学だけでなく、聞き分けのよい子どもとか、でまかせの屁理屈とか、そういった日常の、ごく普通の状況でごく普通に使われている言葉に過ぎない。だからカント先生が、「理性」といったときには、聞き分けのよい子どものイメージだって、頭の片隅にあったに違いないのだ。それは毎日の暮らしに基づいた、生きた日常語でもあったのだ。そのことを、欧米言語環境に暮らし始めた頃に、「発見」したときの私の落胆と安堵といったらなかった。なんだ、そういうことだったのか、と力が抜けて、すっぽりと安心してしまった。外国語を学んで、それが「身になる」というのは、なるほど、こういうプロセスのことなのか、と、帰国子女でもなんでもないから大人になってから外国語を普通に学んだだけの私は、そんな自分の大発見に自分でびっくりしていたのだった。 * ことほどさように、一見、多言語環境をすいすいらくちんに泳いでいるように万が一見受けられたとしても、内心には常にさまざまの葛藤や驚きや困惑をかかえて暮らしているのである。深刻に悩むほどのことではなくても、「ん?」という気づきや瞬間的反応にはまったく事欠かない。なんだかいつもお腹がいっぱいで、引き出しもいっぱいで、余裕が少しもない気がする。そのうちどこかにほころびができて、いろいろなことがちょろちょろと洩れ出していってしまうんじゃないか、という心配も、実はちょっとある。 C'est la vie. It's not a big deal. まあ、仕方ない。 ※「あなたを抱きしめるまで」のトレイラー、1.30〜1.40あたりの字幕が、これまた「どうしてこのような割愛、意訳???」と、ちょっとがっかりするものなのです。どう思われます?
by michikonagasaka
| 2014-03-06 19:53
| 混沌マルチリンガル
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