序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2014年 07月 13日
日本に来て10日ほどになる。少々たまってきた洗濯物をそろそろ、と思い立ち、滞在中のサービスアパートメントの洗濯機を使う。 洗い上がったものを手にとり、ああ、ここは日本なのだという実感がふつふつとわいたのは、他でもない、その手触りの柔らかさのせいだった。 ヨーロッパの水は硬い。けれど私は敢えて柔軟剤というものを使わず、普通の洗濯洗剤のみを使って普段洗濯をしている。柔軟剤独特の、あの「人工的にフルーティだったりフローラルだったりする香り」というのが非常に苦手であるに加え、もう一つの理由。それは、洗い上がり、乾燥したてのパリパリ感をこよなく愛するからなのだ。まるで「のりをきかせ過ぎたかのような」Tシャツの、シャツの、ジーンズの乾き上がりの感触。そのまま直立の姿勢で立ち続けていられるかのような(その意味で、ホモエレクトスの衣服に大変ふさわしい)生地の硬さは、思わずほお擦りしたくなるほど。 そのパリパリのTシャツやジーンズに高温でアイロンをかけて、固く刻まれた皺を延ばし(それは硬水と強い紫外線で深くシャープに刻まれたご婦人方の皺をリフティングして差し上げるイメージともつながる)、縫い目をリスペクトする形ですべらかな二次元へと押さえ込む。Tシャツの袖、肩との縫い目の中心を出発点とする一本の線、それが最終的にはたたんだ時の「畳み皺」になることを想定したあの直線を、硬いコットン素材に入れこむときの快さは、他に類似の悦びを探すことがちょっと困難なくらいだ。 そうした生活習慣病(「病」といって差し支えないほどだと思う)をかかえた身で、さて、日本での洗濯である。柔軟剤がなぜこの国で売られているのか理解不能なほど、柔軟剤をまったく使わずしてのこの柔らかい仕上がり。アイロンのかけ甲斐がない、とはまさにこのようなことであるか、と思う。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本の「厚焼きトースト」のふわふわした感じを、水の硬いヨーロッパの国々で時折、懐かしく思い起こすことがある。私が生まれ育った名古屋という町の、昭和的喫茶店におけるモーニングサービスの代表メニューとして「小倉トースト」なるものがあり、それはこんがり焼けた厚焼きトーストに粒あんを塗って食べるものなのだが(と、まるで通の口ぶりながら、思えばここ30年ほど、オーセンティックなそれを口にしたことはないのだが)、ちょうどあの「小倉トースト」と、たとえばイギリスのホテルでの朝食に出てくるトースト立てに並んだ薄切りトーストを比べてみるがいい。あるいは、前日の残りのバゲットを縦半分に切ってトーストしたフランスのシンプル朝ごはん代表、タルティーヌでもいい。 どちらがいいとか悪いとかではなくて、ただ人の嗜好とはかくも異なるものであるのか、との思いがあらたまるだけのことである。そして美味しいバターを塗ったかりかりのタルティーヌに十分満足する日常とはいえ、時折、小倉トーストのふわふわの甘さを、ああ、食べたいな、と夢想する。ただそれだけのことである。 「柔らかい個人主義の誕生」という名著がある。私が昔から敬愛する山崎正和氏のこの著書は、80年代の消費主義の新たなあり方について論じたもので、その論述自体、今なお色あせることない説得力を持つものであるし、とどのつまり、その後も人々の消費行動はさらにさらに、「個人主義的傾向」を極め続けているかのように思われる(ただし、それは自己表現というポジティヴな側面に代わって、結局は限りなく全員に近い消費者がiPhoneを所有するといった「マジョリティ同一消費=個性埋没的消費」という傾向が際立ってくるのであるが)。だがなんといってもこの本の真骨頂はそのタイトルにある、と昔から私は思ってきた。山崎氏は、本当にコピーライトの天才で、その面目躍如たる名タイトルだ。「柔らかい」という、(現在の私にとって)まさに「日本的であること」を象徴する言葉、そして「個人主義」という、通常、西洋的メンタリティを象徴するために用いられる言葉が、こうして撞着語法的に共存していることの力。さすがだな、と手放しで賞賛したいところだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 話があちこちに飛んで恐縮だが、冒頭の洗濯物の話から、あんトースト、そして「柔らかい個人主義の誕生」へと実際に私の連想は無節操に飛翔し、さて、どこに着地しようか、と、今、宙をぶらぶらしているところなのである。帰国中は、普段とは比べ物にならないくらいに「社交生活」が忙しくなり、しょせんは「お客さん」であることを逆に痛感するような案配だが、こと、洗濯に関しては私はやはり硬水に軍パイをあげ、片や髪や肌の状態に関しては、それはもう間違いなく日本の水のほうが優れていることを、今回もまた再確認している。 それにしても、柔らかいことは非常に結構なことが多いのだけれど、近頃の政治家の言葉というのは、あまりに曖昧に柔らか過ぎる豆腐のようなもので、そこには筋とか骨格といったものが限りなく不在であるというように思う。日本語に対して、いや言葉に対して、あまりに失礼な言説が、ことの核心をぼかし、気分だけに流れ、一切の対話や議論を排除する空気を醸成している。実に空しい。空っぽだ。
by michikonagasaka
| 2014-07-13 23:16
| 身辺雑記
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