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序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2014年 09月 14日
![]() 「京の着倒れ、大阪の食い倒れ」という言葉がある。人生の若い段階で、この二つの関西文化圏を身を以て体験したことが、実は自分にとって大きな財産になっていた、ということを、人生の中盤を越えた現在、あらためて実感している。 たかが衣、たかが食という向きもあろうが、この二つの要素は、実はその「たかが」というところにこそ、大いなる価値がある。少なくとも、私にとっては。 少し前になるが、2013年封切りの映画「Yves Saint Laurent」をチューリッヒの映画館で観た(日本では最近、公開)。伝説的クチュリエ、イヴ・サンローランの生涯を、その公私にわたるパートナー、ピエール・ベルジェ氏との関係というレンズを通して綴ったこの作品。主演の二人(サンローラン役とベルジェ役)は、普通の映画俳優ではなく、コメディー・フランセ―ズの役者。舞台役者の面目躍如たる、実に美しい言葉のアーティキュレーションと奥行きのある役造りが功を奏し、個人的な好みからいえば、大変に見応えのある秀作であった。 パリのオートクチュールのアトリエやコレクションの会場と舞台裏など、かつて私も垣間みる機会が幾多とあった風景がとても懐かしかったのはいうまでもない。クチュールのアトリエには、タイユール(ジャケットやスーツなど、肩のあるかっちりしたもの)とフルー(シフォンやタフタ、サテンなどの柔らかい素材を使ったドレス類)の二種類があって、それぞれのアトリエで使われる手仕事の手順やノウハウは全く違う。熟練したお針子さんたちが、一枚の平面的な布を美しい立体に仕立て上げて行くさま、その見事な手さばきは、何度これを拝見してもその度に惚れ惚れとみとれたものだった。そしてそんなふうに一着一着丁寧に仕立て上げられた服がストックマンのビュストを離れ、モデルたちの美しい肢体に乗っかったときに突然見せる、あの変容。衣服が動きだす、生き始める瞬間といったらいいだろうか。 今でこそ、大掛かりなショーアップですっかりエンターテイメント化してしまったコレクション発表も、かつて、とりわけオートクチュールのそれは自分のメゾンの中で、せいぜい数十人の客やジャーナリストを集めて開かれていた。あの親密な雰囲気の中、椅子に座って開始を待ち構える客たちの緊張、香水の香り、素晴らしい作品が現れた時、はっと息を呑む気配、そしてひと呼吸置いてからドミノ倒しのように沸き起こってくる拍手、天井のシャンデリア、最後にマリエ(花嫁)と共に舞台に現れて深々とお辞儀をするクチュリエ本人・・・・・。 そういう「大層結構なもの」をたくさん見てしまったこともあり、モード、とりわけ、オートクチュールというものは、私にとっては「人間の美的な営み」の中で、かなり高いポジションを占め続けてきたのである。 ところが、映画中、ムッシュ・サンローランは「モードなど、高級芸術ではないのだから」と、やや自虐的な言葉を一度ならず吐いている。仮に芸術の中に「ランク」というものがあるとしたならば、絵画や音楽あたりが一等高いところにあり、次いで文芸、演劇などがきて、そのさらに下部のどこかに控えめにモードがいる。と、そんなようなニュアンスをもって、この言葉は吐かれている。サンローランとベルジェは、20代前半のサンローランがまだディオールのメゾンにいた頃に知り合って、互いに恋に落ちた。ベルジェは「自分のメゾンを開きたい」という恋人の願いをかなえるべく奔走するが、そのベルジェは、もともとジャーナリストで、絵画や彫刻などの「高級芸術(fine art)」の分野に知人が多数いる男だった。またサンローランもベルジェも、生涯にわたってファイン・アートの蒐集に取り憑かれた人間であった。古今東西に広く出自を求めたそのコレクションが、サンローランの死後、クリスティズのオークションにかけられて大きな話題になったことも記憶に新しい。 芸術愛好家であったその二人は、だが「たかがモード」という認識でもまた一致していたのである。そして「されどモード」という認識でも。 「たかがモード」、大いに結構。高等なもの(fine art)を希求することと、「たかがモード」にうつつを抜かすこととは何の問題もなく同居する。 さあ、今日は何をどう着ましょうかね、と、毎朝、自分のクローゼットを見渡すとき、子ども時代のタミーちゃんごっこ以来ずっと続いているささやかな洒落心というものが自分の心の中に宿っていることを感じる。たとえ、今日は一歩も家を出ないという日であったとしても、「なにかそのへんのものをランダムに」ということは、できない。もししてしまったら、一日中、気分が優れないとわかっているからだ。 食い倒れに着倒れ、すなわち食い道楽と着道楽が嵩じて身を滅ぼしてしまうほどだ、ということ。道楽には手間とお金がかかる。そしてこの場合の手間やお金は、理性的な範囲を超えることが多い。収入に見合っていないとか、分不相応とか、時間の無駄とか、とにかく良識ある人から見れば「くだらなくて無駄で馬鹿げている」部分が多分にあるのである。そして、ひとたびなにかの道楽に取り憑かれたら、そうした「良識」の部分はすーっと後景にかすんでいってしまうものなのである。 私の名前に道楽の「道」が入っていること、大変光栄だ。武道、華道、茶道、香道、書道・・・の「道」も高級で素敵だけれど、道楽の「道」は、もっと素敵だ。高級でストイックな道でなくて、ちょっとだらしなくて情けない道。よい名前をつけてもらった、と、今さらながら心の中で親に深々と頭を下げている。 *「イヴ・サンローラン」でサンローラン役を好演しているピエール・ニネについての記事はこちら。
by michikonagasaka
| 2014-09-14 13:19
| 身辺雑記
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