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序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2016年 01月 16日
![]() 昨年末、チューリッヒで河瀬直美監督の映画「あん」を観た。「あんこ」に目がない私は、予告編を目にしたときから気もそぞろで、封切りとほぼ同時に駆け出すようにして(実際は車を飛ばして)市内の小さな映画館のマチネ上映に出かけた。 案の定ーー第一の主題のハンセン氏病は(その悲劇的な歴史を知的&感情のレベルでそれぞれ十分に理解しているにもかかわらず)どこかそっちのけ、「あんこ」という第二の主題が幾重にも変奏して描かれるさまにうっとりしてばかりいた。「小豆さんに失礼」「小豆さんをおもてなししないと」といった擬人的な表現が樹木希林の口からぽろりとつぶやかれるたびに、「そうそう」と膝を打ち、子どもと大人の狭間で、まだふくらはぎがもっそりと太い女子中学生たちが、「これ、美味しくない?」とどらやきにかぶりつく場面では自然に口角が上がる。業務用の缶から水飴を素手ですくって柔らかくなった小豆に加えるシーンも、どら焼きにあんこをはさんでいくシーンも、そして「店長さん」が最後に公園の屋台でどら焼きを売るシーンも、どれもこれも胸が熱くなり気持ちがハイになる。また、必ずしも自分自身の原風景とは重ならないものも多いのだが、郊外電車の踏切、カップ酒の自動販売機、物干用に使われている狭苦しいベランダ、アパートの外階段、桜の花吹雪に月夜など、効果的に挿入される日本の日常風景にえもいわれぬ郷愁を覚え、そこにハンセン氏病患者たちの「塀の内側だけの人生」が影絵のように重なって、どうにも涙が止まらない。 さめやらぬ熱い感情をフェイスブックにアップしたところ、友人知人たちが次々と「私も見に行ってきました」「触発されてあんこを煮てみました」「どら焼きを作ってみました」というような投稿を、美味しそうな写真つきでアップすることしきり。まるで「あんこ教」の教祖にでもなり、熱心な布教活動が功を奏したかのように、愉快な気分にさせてもらったものだった。 ![]() というわけで、少し時間はたってしまったが、さて、それでは私も、と、今晩は小豆を煮てみた。小豆の袋には北海道産の大納言と書いてある。毎回、帰国する度に日本酒や柿の種、その他の好物と共に必ず買って帰るのが小豆。なにしろ、色といい形状といい、これほど愛らしい食材を、私は他に知らないくらい、その姿には毎回、ほれぼれとする。さあて、この大納言さんはどうかしら、と、渋抜きを二回ほどしてから、弱火でコトコト煮ていくと、見事にふっくらと二倍くらいの大きさになり、色も艶もとても美しく、台所はあの懐かしい香りでいっぱいになる。 唐突に、叔父のことを思い出した。鬼籍に入って久しいこの叔父は、生前、事業を成功させた「ひとかどの人物」であったが、その出自は兵庫県の寒村であったという。年端もいかないうちに、知り合いのつてを頼って、薬屋で丁稚奉公するために上京。小学校しか出ていないので学もなければ、世渡りの世の字も知らず、そしておよそ文化的な事柄とはまったく無縁だった少年は、昼過ぎに少しばかり休み時間をもらうと、近くの公園にいって一人で牛乳とあんぱんを食べたという。来る日も来る日も、貧乏で世間を知らない少年は、同じランチを、一人きりで食べた。育ち盛りでお腹も空いていたであろうに、あんぱんひとつで空腹をなんとかごまかし、そしてまた、黙々と奉公を続けた。何年も何年も、あんぱん一つのランチで凌ぎ続け、そして丁稚から番頭に上り詰め、やがて暖簾分けで自分の店を持つほどにまで出世した。 後に彼が「ひとかどの者」になってからも、この伝説的な逸話は親戚仲間の間では、むしろ英雄の伝記の系譜と同じ趣で語り継がれ、「◯◯さんは苦労人だったんだねぇ」「立派なもんだねぇ」というようなオチがつくのが普通だった。子どもだった私は、子供心に、けれど、その「とてつもない空腹を満たしたあんぱん」の、さぞかし格別であったに違いない美味しさの方にもっぱら惹かれていた。昭和40年代の日本では、洋菓子はよそ行きのおやつだったし、あんこはうちでおばあちゃんが煮るものだった。買い食いなどもってのほかという家庭で育ったので、実は「あんぱん」というものを、あまりよく知らない。たまに仕事で東京に出かけた父が木村屋のあんぱんを山のように買って帰り、「ここんちの倅と小学校で同級生だったぞ、木村君ていうんだがね、当たり前だが。はっはっは」と、得意そうにうそぶいていたことをよく覚えているが、それにしても、買い食い知らずの子どもにとって、あんぱんは、珍しい東京土産。エキゾチックなだけに、妄想のふくらむ余地を十分にもった憧れの食べ物だったのだ。 さて、その叔父、「ひとかど」はいいのだが、子どもの私から見ても、恥ずかしくなるような「俗物」でもあった。自民党の議員(地方議会)になったことが自慢で自慢で、会う人ごとにそのことを何気なくもらさずにはいられない。中曽根先生と握手しただの、◯◯先生と知己だの、ということを、これまた「大したことじゃないんですが」と前置きしながら、いかにも自慢げに話す。晩年、地域への貢献(商店会の会長などもやっていたらしい)が認められ(?)、銅像が寄贈されたのだが、それを自宅の応接間に嬉しそうに飾っていたのは面映い以外のなにものでもなかったし、お墓をつくるにあたって、一番高い石を使い、角地の広い敷地に、これ以上ないような立派なものを建てたのもこそばゆいことだった。 その数メートル脇に、私の家の墓というのもある。こちらは、質素そのものの実につましい作りである。同じ親戚でも羽振りも趣味も全然違うことが一目瞭然である。 あれは私がまだ小学生だった頃。どういう経緯だったか、叔父に連れられてその両家のお墓参りに行くことになった。私の他に、妹も一緒だったように記憶している。両家それぞれのお墓に参ったあと、正門までてくてく歩くとずいぶんな距離になって少し汗ばむほど。 「やれやれ。道子ちゃんも直子ちゃんも疲れたでしょう。さあ、ちょっと一休みしていこうか」 そういって、叔父は私たちをロータリー脇のベンチに促した。いわれるままに、はい、そうしましょうと腰掛けると、叔父はぶら下げていた紙袋からプラスチックの使い捨て容器を取り出した。輪ゴムでとめてあったふたをあけると、中にはどこかで買ってずっと持ち歩いていたのであろう、おおぶりのぼた餅が数個、入っていた。 「さあさあ、これをおあがんなさい」 手づかみでぼた餅をほおばり、初老の叔父と、小学生だった私たちはそろってほっと一息ついた。たくさん歩いた後だったし、あまり近しい関係ともいえぬ叔父と過ごしたことでやや緊張していたせいか、私たちも疲れていたのだろう。素朴で大きなぼた餅の甘さが美味しく染み入った。 ぼた餅で英気を養った私たちは、電車に乗り、途中、どこかで散歩をしたり、なにかを買ってもらったりした後、最終目的の銀座に到着した。 「銀ブラ」などという言葉を、あの日、叔父の口から聞いたのだったかどうか。お墓参りや親戚の冠婚葬祭などで訪れる以外、東京には滅多に行く機会のない地方都市育ちの私たち姉妹は、目をきょろきょろさせていたに違いない。そしてずいぶんと緊張していたにも違いない。なにしろ、その夜、私たちが連れて行かれたのは、フランス料理の「レカン」であったのだから。 ![]() 昨春、よもぎ団子と柏餅を作ってみました。柏の葉っぱは近所の公園から摘んで(もいで)きました。また春になったら、まずは「おはぎ」を作りましょうか。 善意あふれる叔父は、年端もいかない姪たちに「最高のものを経験させてやろう」とでも思ったのか。オマールのコンソメ(だったかどうかは覚えていないが 笑)のようなものに始まるフルコースは、もちろん美味しかったに相違ないが、じっくり味わう余裕などむろん、あるはずはない。が、不慣れな高級な場所に圧倒された、というのもさることながら、その夜、子どもの私が密かに抱いた不思議な気持ちというのは、おそらく「ぼた餅」と「レカン」のコントラストの遠い彼方にある、叔父のあんぱん、叔父の出自、といったことへの複合的な感慨のようなものであった。ぼた餅にあんぱんが重なり、レカンに銅像が重なる。俗物、という言葉の意味すら、おそらくは生涯知り得なかった無学で財産家の叔父が、贅沢なディナーを姪にふるまい、相好を崩してぼた餅をほおばった、昭和40年代のあの一日。 外は今冬、初めての雪が積もっている。しんしんと冷える夜に小豆を煮ながら、あの愛すべき叔父の少年時代のあんぱんの味を想像上で再現する。若い頃、忌み嫌い、軽蔑もした彼の「俗物」性を、まあそれもいいじゃないの、くらいに、今晩の私は思っている。
by michikonagasaka
| 2016-01-16 08:20
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