序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2016年 01月 28日
(エイジングを巡る、心の反転現象についての覚え書き) 一昨日、バレエのレッスンの最中、突然、左の膝が「カクッ」という音を立てて(というように思われた)、その後、脚に力が入らなくなった。ちょうど、ドゥミポワント(つま先立ち)でなにかの動きをしていた時だったと思う。レッスンを続ける仲間の輪を離れ、一人練習室の隅っこの床に座り、先生の声を聞き、みなの動きを目で追っていた。はて、一体、この膝には何が起きたのか。 一夜明けても膝の痛みや違和感は消えることなく、やはりこれは様子がおかしい、と、不承不承、医者に行くことにした。ひととおりの問診や触診やレントゲン検査を経た上で下された診断というのは「加齢と過重負荷による関節の炎症」というものだった。 10年ほど前、スキーの事故で左ひざのすぐ下の頸骨を骨折し、わりに大掛かりな手術を受けた。10センチ以上もあるチタンの釘を数本入れて2ヶ月の松葉杖生活。その後、再度、傷口を開けて釘は取り出し、骨もちゃんとくっついたのであるが、以来、私の膝は、なにか以前とは違うものになった。そのことは、身体感覚で自覚できたけれど、体は不具合を察知し、その不具合を補う方向で順応するから、いつしか、不具合を自然にかばうような姿勢や動作が、私にとっての「常態」になった。しかし、その時点で、たぶん膝の関節は、やや変形をしていたのであろう。そこに「加齢」が加わって、骨と骨の間の軟骨が摩耗した。さらに、ここしばらくダンスを一生懸命やっていたので、知らぬうちに膝には負荷がかかり続けていた。その負荷が、加齢で劣化した膝関節の「持ちこたえられる限界」をどうやら越えてしまった、ということらしかった。 「特に治療ということはないですが、これは加齢によることですからね、治るということもない」 「では、これからどうすればいいのでしょうか?」 「まず、ダンスは少し休んでください」 「・・・・・」 「その上で、膝の痛みや違和感がなくなったら、また始めてもいいですが、くれぐれも注意しながら。これまで通りにはいかないということを自覚して、無理をしないように」 「・・・・・」 「ダンスもいいですがね、クラシックバレエでは、関節の劣化を補う筋肉の鍛練にはあまり役立たないでしょうから、自転車とかジムなど、大腿やふくらはぎの筋肉を鍛えることに特化した運動がいいでしょう」 「・・・・・」 ここ数年、ダンスやヨガなどで、かつて「できなかったこと」が「できるようになっていく」プロセスを体験していて、それは間違いなく大いなる喜びだったのに、今、そのプロセスを逆方向に進み始めなければいけないことになったらしい。不意打ちにあった気分だった。エイジングということに、このような形で向き合う心の準備ができていなかった。だから私はミニ・クライシスに陥った。この日の診断および今後の展望には、なにか、非常にしょげ返るものがあり、その事実に自分で驚き、そして動揺した。普段、アンチ・アンチ・エイジングをフィロソフィーとして標榜しているくせに、誠にだらしのない腰砕けの反応であった。 さて、そのミニ・クライシスを抱えたまま、その夜、約束していた友人との食事に出かけた(歩いたり車を運転したりはできるので)。 「で、どうだった、膝は?」 前の晩に家で膝に保冷剤を当てていた私の姿をみている彼女は、開口一番、そう尋ねて私の身を案じた。診断の中身を知らせると、彼女は「あら、よかったじゃない」という。「骨折とかじん帯を痛めるというようなことでなかっただけ、どれだけよかったか」と。 「でもさあ、もうこれまでみたいにダンスできなくなるかもしれないし・・・」といじける私に、「私たち、もう20歳じゃないんだから!!!」と喝を入れ、「さあさあ、大事に至ってなかったお祝いに乾杯しましょう」と。 そんなかんなで多少は気も紛れ、楽しい一夜を過ごした後、最後に、セルフィーでもしちゃおうか、という話になった。 「せっかくだから20歳の子たちみたいにやっちゃおう」 彼女の提案で、私たちは、彼女の手持ちのiPhoenに向かって次々に「おかしい顏」をつくった。 大爆笑顔 悲しみのどん底 ダックフェイス 驚愕マックス ・・・・・・・・ ・・・・・・・・。 一連の写真を、彼女は私にすぐに送ってくれた。自分のとんでもなく芝居じみた「変な顏」に苦笑しつつ、一方で、彼女の「引きつった顏」にハッとなった。そこでは笑顔も悲しい顏も驚いた顏も、いずれも20パーセントくらいしか「想定された感情」が露わになっていない。爆笑の代わりに薄笑いが、大泣きの代わりに泣きべそが、びっくり仰天の代わりに「ん?」という程度の表情が、箱のなかの標本みたいに並んでいた。 イスラエル住まいの彼女とは年に1〜2回会う程度だが、その度に私は、「あ」と気づきながら、そのことを特に話題にすることはなかった。ここ数年、そのようなことが続いたが、今回はその「あ」が、これまで以上に大きかったかもしれない。なんとまあ、きれいで張りのある肌(になったの)だろう、なんとまあ、格好のいい鼻や唇である(になった)ことだろう、と、こっそり彼女の顏を何度も凝視せずにはおられなかった。 それは彼女の選択であり、私がとやかくいうことではまったくない。人それぞれに好きなファッションや食べ物やライフスタイルがあるように、人それぞれ、エイジングのアキレス腱は多様なのである。彼女にとっては、おそらく皺やたるみといったことが、そして私にとっては「これまで通りダンスができなくなる」「もしかしたらハイヒールが履けなくなる」といったことが、アキレス腱としてちくりと来るのである。いずれにしても、人間とはなんと滑稽な生き物だろうか、と、我ら人間が主役の喜劇と悲劇のボーダーレスな眺めにハッとなる。 * * * * ミニ・クライシスから一夜が明けた朝。どんよりと曇った冬の空を見やりながら、膝の不具合は相変わらずそのままながら、何か、今朝は妙に清々しい気分になっていることに我ながら驚いた。 人間は、生れ落ちたその日から、ひたすら不可逆的に死に向かって刻々と歩み始める。その歩み、すなわちエイジングである。ある時点を境に、「できていたことができなくなる」頻度が、「できなかったことができるようになる」頻度を上回るようになる。それを人は便宜上、エイジング(老化)と呼び、そしてそれは「劣化」として受け止められることが多い。けれど、この「劣化」は、実は単に「変化」というだけのことなのかもしれない、ということを思った。 朝、お化粧するとき、シャワーを浴びるとき、ブティックで何かを試着するとき、自分のフィジックが以前と異なっていることに、もちろん私は気がつく。おやおやおや、と、苦笑する局面も少なくない。けれど、この「変化」には、どこか、抱きしめたくなるような愛おしさがかすかに含まれている。その愛おしさとは、おそらく、人の生のまさに「不可逆性」「一回性」というところに由来しているような気がする。 それにしても、エイジングを巡ってわずか24時間足らずのうちに「動揺」から「愛おしさ」へと、心模様が見事に反転した不思議に驚く。その反転現象には、ひょっとしたら、昨夜のセルフィー体験が寄与したのかもしれない。皺を思い切り刻んで大笑いをしている自分の滑稽な顏。眉をヘの字に寄せて悲しみを再現しようとしている自分の滑稽な顏。口を縦に大きく開いてこれ以上ないほどの「びっくり」を語る自分の滑稽な顏。喜びでも悲しみでも怒りでもなんでもいい。大きな表情を刻んで、たくさんの皺をこさえながら、この不可逆の道をこれからも感情豊かに、そしてできれば心優しく歩いていけばいいんじゃないか、と思ったことだった。 そういえば、あるとき、バレエの先生がレッスン中にこんなことをいった。 「アン・ドゥ・トロワ、ほら、こうやって足首を鍛えておくと、おばあちゃんになってもハイヒールを履き続けられますよ。ね、いいでしょ。頑張りましょうね」 こんな素敵なゴールを与えられたのであれば、張り切らない道理はない。居並ぶミドルエイジの生徒たちは、その瞬間、揃ってちょっと真剣になって背筋が伸びた。その真剣が空気の中に響き渡った。ハイヒールが履けなくなる日が来るとしても、ハイヒールという言葉にこんんふうに思わず反応してしまう、そのような心の持ちようを保ち続けるくらいのアンチ・エイジングならば、それはなんだか可愛らしくていいかもしれない。
by michikonagasaka
| 2016-01-28 20:57
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