序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2016年 05月 23日
本に呼ばれる、という体験をたびたびしてきた。ぼんやりと本屋さんを徘徊しているときに、なにか向こうから手招きされる感じがやってくるのである。私はただ、その「声」に身を委ねてみる。そういうときに手にとる本にはおおむね、間違いがない。 この小さな本(といっても500ページ近く)をそんなふうにして手にとったのは、東京・神楽坂、矢来町(やらいちょう)という地区にある小さな本屋さんでのことだった。そもそも矢来町というのは、私にとって個人的に少々ゆかりのある街である。というのも、そこで私の亡き父が幼少時代から青年期までを過ごし、祖父母は界隈でトンカツ屋兼呑み屋を営んでいたから。かの二・二六事件の日、前夜夜半からの大雪であたり一面がまっ白におおわれた朝、小学生だった父はヤッホーと小躍り、喜び勇んで神楽坂をスキーで急滑降していたところを、憲兵に見とがめられた。「坊主、お国の一大事にきさまはなにをやっとる。さっさとうちへ帰れ」と追い立てられた。幼いながらも父は、なにやら尋常でない厳粛な空気を感じ取り、神妙に大急ぎで帰宅したという。そんな逸話があるせいか、神楽坂のこの界隈というのは、自分にとっては「歴史」という抽象が、突然、なにか生き生きとした具体性をもって身にせまってくる、そうした特別な土地の一つなのである。 その特別な土地で、偶然に立ち寄った小さな本屋で、その本は私を呼んだのである。果たして帯に作家についての特別なキャッチが書かれていたのか、今となってはそれもわからない(なぜならいつしか帯をなくしてしまったので)。その作家、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの舌がもつれそうに長い名前を、まさかその日、私が覚えていたとは思えない。平積みになっていたのは、彼女がノーベル文学賞を受賞してそれほど間がないタイミングだったからだろう。だが、そもそも◯◯賞と名のつくものにはとんと無関心どころか、むしろ、眉唾をもってかかる読者である。それにここしばらく、ノーベル賞受賞作家の作品を、純粋に作品として心から感心したという経験がなかったから、なおのこと疑い深くもなろうというもの。にもかかわらず、私は迷わずその文庫本を手にとり、解説やあとがきの類で手がかりを探すこともせず、すぐにレジへ持っていって支払いを済ませた。 その本の題名は、「戦争は女の顏をしていない」。 これは第二次世界大戦時、ソ連軍に従軍した女性たち500人以上に丹念な聞き取りをし、それを淡々と記述した書物である。彼女たちは10代半ばから20代が中心で、あるものはスターリンに心酔し、あるものは親兄弟を既に失くし、あるものはシンプルな郷土愛にかられ、またあるものはファシズムへの、ドイツ人への憎しみから、軍医や看護婦や情報係としてだけでなく、多くが前線に従軍し、パルチザンの地下活動に参加した。その数、100万を越えるといわれる。生死の境をさまよい、男たちと共に闘い、負傷兵を運び、軍用機から爆弾を落とし、ドイツ兵に銃弾を浴びせた。シラミと闘い、男もののブカブカの軍用ブーツを履き、凍傷や飢餓と共に、死と隣り合わせの非日常的な日常を送った。一日で白髪になったり、生理が止まったり。そうかと思えば戦火の下で恋をしたり歌を歌ったり。 しかしそんな彼女たちの多くにとって、終戦は、終戦を意味しなかった。手にした勲章や栄誉の数々にもかかわらず、70歳を超えても悪夢にうなされ、青い空を見上げることができず、心身の後遺症に悩まされ、終戦記念日にはわざとためておいた洗濯ものを片付けるのに一日を費やすようにし続けた。ただ、そうすることで「余計なことを考えずにすむから」というだけの理由で。さあ、これからいよいよ「普通に穏やかで幸せな日々に戻れる、戻ろう」と故郷に帰ってきてみれば、前線でなにをやってきたんだか、という白い目を彼女たちに向けたのは、故郷の女たちだけではなかった。戦場ではあれほど勇敢で優しかった戦友の男たちも、戦後は手の平を返したように彼女たちには冷たかった。戦争に参加した女性たちの戦争は生涯続き、悲惨や苦痛は、決して彼女たちを離れることがなかった。彼女たちは口を堅く閉ざし、心も閉ざすことを運命づけられてしまった。もし誰かが記録しなければ、100万人の女性たちの「戦争」は、歴史からあとかたもなく消えてしまっていたことだろう。 作者のとった手法は、徹頭徹尾、聞くこと、記録することであった。そこには予定調和なストーリーづくりもなければ、糾弾や怒りといった、わかりやすい「反戦の態度」もない。トルストイの「戦争と平和」を若い頃に読んだとき、日本の外の世界のことなど何も知らなかったけれど、歴史記述における「名もない個人たち」の存在ということに私は強烈な印象を受けた。ストーリーそのものはたいして覚えていなくても、そういう印象そのものは、鮮明に今も、スイスに暮らす私とともに生き続けている。そんなことを思い出した読書だった。 ・・・・・・・・・・・・・ 「初めて世話した負傷兵をまだ覚えています。顏も覚えてます。大腿部の骨折だった。骨が突き出てた。破片で裂けた傷口がぱっくり開いていた。理屈では分かっていたけど、実際に目の当たりにして私は吐き気がしてしまった。そのとき、「看護婦さん、水を飲んだら楽になるよ」とその負傷者がいうのが聞こえた。同情してるんです。今でもその様子が眼に浮かぶ。その人が言ってくれて、私はふと我に返った。「これじゃトゥルゲーネフのご令嬢もいいとこね! 人が死にかけているのに、お嬢さまは吐き気だなんて」 「冬にドイツ人の捕虜が連れて行かれるのに出くわしたときのこと。みんな凍えていた。穴の空いた毛布を頭からかぶって、焼けこげた軍外套を着ている。ものすごい寒さで鳥だって飛びながら凍え死んだほど。捕虜の中に一人の兵士がいた・・・・。少年よ・・・・。涙が顏の上に凍りついている。私は手押し車で食堂にパンを運んでいるところだった。その兵士の眼が私の手押し車に釘付けになっているの。私のことなんか眼中になくて、手押し車だけを見てる。パンだ、パン・・・・。私はパンを一個とって半分に割ってやり、それを兵士にあげた。その子は受け取った・・・。受け取ったけど、信じられないの……。信じられない……信じられないのよ。私は嬉しかった……憎むことができないということが嬉しかった。自分でも驚いたわ」 「憶えてるわ。ある村に着いた時、森の近くでパルチザンの死体があちこちにころがっている。いたぶりつくされて殺された姿を口では言えません。心臓がもたないわ。ずたずたに切り刻まれて。豚の臓物みたいに腸を裂かれて……それが横たわっている……そのすぐ近くで馬が草を食んでいる。馬はパルチザンのものだったかもしれない。鞍をつけたまま。ドイツ人に捕まって逃げ出してそのあとに戻ってきたのか、捕まらずに済んでいたのかわからないけど、遠くに行かないの。草はたくさんあります。その時も思いました、生き物のみている前でなんという恐ろしいことをしたんだろう、馬は全てをみていたのよ……」 「私の病室には負傷兵が二人いた。ドイツ兵と味方のやけどした戦車兵が。そばにいって「気分はどうですか」と訊くと「俺はいいが、こいつはだめだ」と戦車兵が答えます。「でもファシストよ」「いや、自分は大丈夫だ、こいつを……」あの人たちは敵同士じゃないんです。ただ怪我をした二人の人が横たわっているだけ。二人の間にはなにか人間的なものが芽生えていました。こういうことがたちまち起きるのを何度も眼にしました」 「初めは死ぬのが怖かった。自分の中に、驚きと好奇心が同居していて、そのうち、疲れ果てたらどちらもなくなった。いつも力一杯働いていたから。そんなことを感じる余裕がなくなったのね。ただひとつだけ恐れていたのは死んだあと醜い姿をさらすこと。女としての恐怖だわ。砲弾で肉の断片にされたくなかったんです。そういうのを自分の眼で見ていたし、その肉片を集めもしたから」 「あたしは英雄じゃないの……。かわいい子って小さい頃甘やかされてた。戦争になった……死にたくなかったわ。銃を撃つなんて怖かったし、いつか銃を撃つことになるなんて考えてもいなかった。(中略)戦前はみな一緒に仲良く住んでいたのよ。ロシア人もタタール人もドイツ人もユダヤ人も、みな同じに。そうなのよ、あなた。「ユダヤ野郎」なんて言葉自体聞いたことがなかった。だって、おかあさんやおとうさんと、そしてたくさんの本と一緒だったんですもの。それなのに伝染病のように恐れられるようになって、どこでも追い立てられた。(中略)母は撃ち殺された。それはあたしたちがゲットーに引っ越す直前のこと。町中に張り紙があった。「ユダヤ人には次のことを禁ずる——-歩道を歩くこと、美容院へ行くこと。店で何かを買うこと、笑うこと、泣くこと」そうなんですよ、あなた。おかあさんはそれにまだ慣れていなかったの。いつもうかつだったし、そんなこと信じられなかったのね。うっかり、お店に入ってしまったのかもしれない。何か乱暴なことを言われて笑い出したのかもしれない。母はとてもきれいな人だった。戦前は音楽協会で唄っていて、人気だった。そうなんですよ、あなた。もし母があんなにきれいじゃなかったら……うちの母が……あたしか父と一緒だったら……いつもこのことを思うわ……。見知らぬ人たちが母を運び込んできたのは夜。死んだ母を。もうオーバーも編み上げ靴も身につけていなかった。悪夢だった・(中略)ゲットーでは自分の家がなく、他人の家の屋根裏部屋をあてがわれた。父はバイオリンを手に取った。これは戦前一番大事にしていたしていたもの、それを売ろうとしたの。あたしは扁桃腺で寝ていた。父は何か食料を買いたかったの。あたしが死んでしまうんじゃないかと心配だった。(中略)父が殺されたと知り合いの人たちが教えてくれるまで、三日も父を待っていたんです。バイオリンのせいだったんですって。それが高いものかどうかわかりませんけど、父は出かけるとき言ってたの、はち蜜の瓶詰めとバターをひとかけもらえればいいんだが、と。」 「身重の女が地雷を運ぶ……赤ん坊がもうできていたんですよ……。愛していた、生きていたかった。もちろん怖がっていました。それでも運んでいた」 ・・・・・・・・・・・ 歴史には「起承転結」などというものはない、ということを思い知らされる。こうして、500ページ近い書物のどこを偶然に開いても、そこには取り替えのきかぬ個人の体験や感情や苦悩があるきりで、わかりやすい因果関係も、理由づけも、時系列的な順番さえもが不要なのである。読み終えたとき、その最後の「記述の断片」は、なんら結論的なものをもたないものだったにもかかわらず、重たい石のようなものを私の中に残した。こういうのをよい読書、と、私はいつも思ってきたし、いまもそのように思い続けている。 それにしても、翻訳がまた素晴らしいのである。翻訳は単なる語学屋の技術ではなく、それ自体が解釈であり、表現であるということを、かくも見事に披露してくれるような、読みやすく、かつ、テクストへの愛に満ちた訳。日本語としての独立したこなれやリズム感、間の取り方も素晴らしい。澤地久枝さんによる文庫本への「あとがき」によれば、翻訳者の三浦みどりさんは、アレクシエーヴィナのノーベル賞受賞に先立つ2012年に癌で亡くなられた。その三浦さんが長い時間をかけ、作者とのきめ細かいやり取りをへて翻訳にこぎつけたこの作品を、だが、当時の日本の大手出版社は見向きもしない。最初の版元は群像社という小さな出版社で、そこでは発行人島田進矢氏が「行商」をして商売を支えており、この本もまたそんな「行商」で世に出たものであったこと、そしてやっと出版にこぎつけたものの、その後、長らく絶版という状態が続いていたということを、やはりこのあとがきで私は知った。 作品自体の圧倒的な「語る力」と共に、出版人や翻訳者といった「舞台裏の人々」の高い志、己が信ずるところに拘泥し続けていく仕事人としての流儀や矜持といったものにもまた、たいそう心を打たれた。矢来町には、やはり今後も足を向けては寝られない。
by michikonagasaka
| 2016-05-23 05:55
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