序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2016年 10月 08日
朝と夕、なんとなく世界で起きている出来事に目を通すのが習慣になっている。朝、といってもそれはヨーロッパ時間の朝なので、日本だったら夕方、アメリカならまだ夜中、というタイミングから、世界を眺めていることになる。遅れることもあれば、遅れた儲けもんで、少し突っ込んだ分析や考察がすでに出ているということもある。逆に、近いタイムゾーン(ヨーロッパ、アフリカ、中近東)の出来事であれば、リアルタイムの臨場感で世界を見ていることになる。
今日もまた、そんな風にして世界の出来事を眺めた中、印象に残ったニュースが二つあった。いずれもヨーロッパ発のニュースなので、リアルタイムでそれに触れている。 その一つ。ドイツのザクセン州で、二つの事件があった。一つは、若者のグループが、シリア難民の兄弟三人(5歳、8歳、11歳)がバスから降りてきたところをナイフで脅し、なぐりつけた、というもの。このニュースを目にした数分後、もう一つのニュース が同じザクセンから飛び込んできた。ここに暮らすアフリカ系の男性が、近所の男性二人から自宅で暴行を受けたというもの。暴行した二人は酒に酔っていたというが、警察発表によれば、動機は「外人ヘイト」だった由。 なんという・・・。 もう一つのニュースは、英国で、Brexitに関する外国籍の研究者の論文や提言は受け付けないという判断が政府によってもたらされたというもの。ロンドンのスクール・オブ・エコノミクスで、これまで政府への助言を行ってきた数名の学者に対し、「今後は、Brexitについてのご意見その他をあなたたちから受け付けることはありません。なぜならあなたたちは英国籍を保有していないから」という政府の見解が伝えられたという。 なんという・・・。 実は、上のザクセンのニュースに関し、ほどなく、そのソースであるシュピーゲルオンラインが自らコメント欄に次のように記していた。 「こんなことを敢えて言わなければいけないのは誠に悲しいことであるが、上掲記事について、ザクセンの住民全体、旧東ドイツ住民全体を揶揄するようなコメントを寄せた人は、それこそがまさに、全く同様の他者ヘイトであり差別であるということを残念ながら理解していない。よって、こうしたコメントは当編集部の責任において削除させていただいた」 このところ、ヨーロッパでもアメリカでも日本でも、こうしたヘイトや他者への不寛容をベースとした事件、事象、発言その他が、来る日も来る日も繰り返されている。SNS上は悪意や怨念に満ちた言論で溢れかえり、極右勢力はどこでも支持を伸ばし、そして世界のあちこちで、選挙によって選ばれた現政権が「まさか」という差別的、不寛容な発言や政策を白昼堂々、展開している。その「まさか」のハードルは、どんどん低くなっている。 一体全体、どうしてこんなことになってしまったのか。 ・・・・という大問題に、理論武装、データ武装で立ち向かう力はとても私のようなものには備わっていない。感情的に浅薄なことを断言するのも、自分の流儀ではない。けれど、ささやかな人生経験と、ジオポリティクスや人間社会についての人並みな知識や理解を総動員した上で思うのは、やはりこのグローバリゼーションというやつの負の側面がここまで肥大化してしまった悲劇ということだ。無制限な自由競争によって全体の富が高まればその恩恵はくまなく全体に行きわたるというその「信念」(希望的観測)のほころびが、かくも制御不能なまでに大きくなってしまった。そして、「全体の富」とやらの恩恵に与かることのできない多数の市民という、落ちこぼれ階級を作り出してしまった。 思うに、人が他者に優しくなれたり、共感や慈悲の気持ちを抱いたりするためには、少なくとも最低限にディーセントな暮らしの基盤が必要なのだ。そこの部分が脅かされてしまったり、そこの部分への将来的な希望が剥奪されてしまった時に人が陥るやけっぱちやルサンチマンの状態から、他者への寛容を期待するのは、いくらなんでも要求しすぎというもの。ディーセントな暮らしの基盤が保証された上で、教育や家庭環境といったものがさらなる他者への寛容の芽を育み、蕾を膨らませる。だって人間ですもの、自分が生きるか死ぬかの状況で、なかなか聖人みたいには振る舞えないものでしょう。「かつては慎ましやかななりにそこそこディーセントだった」ものが、人生の半ばで突然、失われてしまったり、若い時から一度たりとも「まあまあな状態」というのを経験することができなかったとしたら、世を恨みたくもなるでしょう。自暴自棄にもなるでしょう。 その意味で、各国政府が「まずは経済」ということを選挙民にアピールするのは、あながち見当違いともいえない。要は、その「経済」を、相も変わらず、グローバリゼーション、自由競争の方向にばかりプッシュする道をとるのか、あるいは、富のより公平な分配ということに重きをおいた道をとるのか、そういう舵の取り方のヴィジョンであり、方法なのであると思う。 水を民営化する、という議論がいくつかの国で起こっている。私の住むスイスの巨大コンツェルン、ネスレがそちらの方向に動いているというようなニュースも目にするし、日本の地方自治体で、そのような方向へシフトしようとする動きがあるとも聞くし、世界にはすでに、それが実践されている地域もある。人間が尊厳ある存在として生きていくために享受すべきアイテムのいくつかは、私は、絶対に自由競争の原理に委ねてはいけないとかねてより思ってきた。人間の根源的な生存権に関わるそうしたアイテムの一つが教育、もう一つが医療や介護、そしてこの水というものも、そのグループに加えるべきものだと思うのだ。そこの部分を市場原理に売り渡してしまうと、そこからはじき出される人が絶対に出てくる。それは人権というアイデアリズムの面からも、また長期的なコストや、社会の不安定化を避けるというプラグマティックな面からも、できるだけ避けるべく努めたほうがいいに決まっている。行き過ぎたグローバリゼーションへのブレーキとして、最低限、ここは押さえたいところだ。その上で、税制や、様々な規制、共通のルールという縛りをつけて、富の極端な集中を防ぎ、国際的な強制力や努力目標という形、あるいは、国内の法律等によって、ブラック的なものがまかり通りにくい仕組みを作っていく。これ以上は譲れない、という境界線を、企業の肥大化、労働条件など、あっちこっちに幾重にも課していくーーー思えばこれこそは、少なくとも共通理念としてEUが掲げてきたことであり(煩雑なビュロクラシーや膨大な非能率があったとはいえ)、それが英国の自由な企業活動の足かせになるというからというのがBrexitの理由の一つでもあったのだった。 * * * 新聞その他で、冒頭のような事件に触れるたびに、やりきれない思いになる。つまり、ここしばらく、毎日やりきれない思いになっているということである。じゃあどうする、と考えてみるものの、私の小さな頭では、途方に暮れるばかり。 ヘイトや差別に凝り固まっている人たちと私は個人的にお友達にはなれない。けれど、彼らをそのようにさせてしまった背景をこそ糾弾し是正するべきで、凝り固まっている人たち自体を責めたところで、そこには何の解決もない。悪口の応報の平行線がどこまでも続き、寒々としたものが積み重なるだけである。彼らをそのようにさせてしまった背景、それはきっと教育の欠如とか貧困であり、彼らをして「自分たちが正当に扱われていない」と思わせる制度であり、社会なのだろう。 とか何とか・・・・・・今日、私が訥々と綴ったことに何ら目新しいものはない。とっくの昔に言い尽くされていることばかりだ。それを十分承知の上で、経済学者でもなければ政治家でもない、国際情勢専門のジャーナリストでもなければ、哲学者でもない、一市民の素朴な実感として、私はあえて、それを繰り返したにすぎない。 思い起こせば、自分自身が大学で何を勉強するか、あるいはどんな仕事をするのか、という岐路に立った時、そこに「経済的な発想」というものは、まるでなかった。いい収入を得たいから、安定した暮らしをしたいから、というような動機からまったく自由に、好きなこと、興味のあること、面白そうと思ったことを、都度、選択したにすぎない。そんな呑気な選択をしても、なんとかディーセントな暮らしが営めるような社会が、たぶんいい社会なのだろうと思う。日本の給料は低すぎる。労働は過酷過ぎる。子供達はぼんやりする時間がなさすぎる。先進国に限ったことだが、世界標準に照らし合わせても、それはもう日を見るより明らかである。「貧困世帯のくせに贅沢だ」「自己責任」「穀潰し」「寄生虫」「社会のお荷物」ーーーーそうした、ゾッとするレッテルを、同じ人間同士が互いに貼り付け合うような社会は生きづらい。楽しくない。わくわくしない。 本当のことをいえば、私だって、文学や音楽やお酒や美味しいものを友達に、呑気に生きていきたい。けれど、自分の中には「ある基準」というものがあって、そこが脅かされる場面に遭遇したら、我関せず、と自己実現だの自分の幸福追求だのにばかりかまけていることはできないのである。自分には、想像力とか共感というものが人並みに備わっているし、いろんな成り行きで世界をあちこち覗いてしまったので、どうしたってそういうことになるのである。とりあえず、小さいところで、何か自分にできることを。そこにいつも舞い戻ってくる。
by michikonagasaka
| 2016-10-08 07:04
| 考えずにはいられない
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