序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2016年 10月 26日
フリードリッヒ・グルダという風変わりなピアニスト(1930-2000)がいた。ウィーンの普通のプチブルジョワの家庭に生まれ育ち、彼が言うところの「白人のエリートの音楽」を学び、ベートーヴェンやバッハやモーツァルトをとっても素敵に弾いたこの人は、チック・コリアやハービー・ハンコックとジャズのインプロバイズもすれば、裸でパフォーマンスもした。作曲も指揮もした。 ジャズは、ナチス時代、敵国(イギリスとアメリカ)のラジオをこっそり聞いて覚え、夢中になったという。 そのグルダによると、音楽には(それがモーツァルトだろうが、ディスコ音楽だろうが、ジャズだろうが、ポップだろうが、民族音楽だろうが)三つの共通点がある。 一つは、音楽におけるポジティブなアチチュード。音楽は破壊やニヒリズムや怒りではなく、生のポジティブな喜びを讃えるものだという点。 二番目は、ダンス的側面。それが人間の心と体を踊らせる、という点。 そして三番目は、エロティックな側面。 「モーツァルトのオペラをご覧なさい。コジ・ファン・トゥッテもドン・ジョバンニもフィガロの結婚も、とどのつまりはエロスばっかじゃないか」と。 今日は一日中雨が止まなかった。書き物にも疲れ、夜が更けてからぼんやりと彼の人となりと音楽についての映画を観ていた。 題名は Friedrich Gulda - So What, A Portrait (2002)という。
「So what? だからどうした?」 今風に言えば、「変人ですが、何か?」とか「変わったことしてますが、それが何か?」といったニュアンスのこの人を食ったような題名が、因襲を嫌い、生涯を通じて因襲的な境界線を越えよう、取っ払おうとし続けた彼にぴったりだ。 この映画の中、音楽を女性に例え、女性を音楽と比べるくだりが出てくる。それをそのまま、寸評なしに、ただ記しておこう。 音楽は、僕に安心感を与えてくれる。 まるで母のように。 頼りになるし、信頼もできる。 ずっとそこにい続けてくれる。 そう、完璧な妻みたいなもの。 しかも、いつもワクワクするような新しさをもたらし続けてくれて、 気まぐれだったり、予想がつかなかったり 素晴らしく身を投げ出してみせたり、 つまり、男だったら誰もが夢見るような けれど現実には存在しっこない、 これ以上ない恋人のようでもある。 悲しいことに、音楽とこれっぽっちも張り合える女性なんて この世にはいない。 女性たちは、そのことに当然、気づき、 そして音楽に嫉妬する。 彼女たちはそれを見せないようにするけれど、 でも問題が起きるのさ。 それは僕に限ったことじゃない。 僕の音楽仲間だってみんな同じさ。 ふうん、そんなものなのか(以上、感想終わり)。 それにしても、因襲的なことは面白くない。垣根の外側に出られないことはつまらない。それは本当にその通り。 彼はまたいう。 「例えばの話、クラシックとジャズの間の国境、それは音楽的な国境であるだけでなく、社会的な国境でもある。一方はお金持ちの白人の音楽。もう一方は貧しい黒人の音楽。そんなの関係ないじゃないか、と思って、国境を越えてこっちとあっちを自由に行き来しようとしても、これは思いの外、難しいんだ。アーチストたちにも縄張り意識があるし、観衆にもそれがある。この音楽の人はこういうライフスタイルであるべき、こういうファッションであるべき、というステレオタイプもものすごく強いね。そこから僕は外に出たかった」 全くこのとおりいっているわけではないけれど、だいたいそういうことを言っている。そして私自身は、彼のそういうところに強く共感する。 因襲的でなくあろうとすると、そこに属して安穏としていられるグループがないことになるので、勢い一匹狼的にならざるを得ない。どのみち、意味なくつるむことには興味がないとはいえ、それにしても、まあまあ険しい道ではある。 音楽に関していえば、これは後追いで思うことだけれど、私が長らく「クラシック音楽」があんまり好きじゃなかったのは、そこからプンプン臭ってくる優等生的エリート意識の側面のせいだった。でも大人になって、そういうカテゴリーで音楽の中身を見るのが馬鹿らしくなり、クラシックだろうがジャズだろうが民謡だろうがロックだろうが、中身だけで好きとか嫌いを決めればいいんじゃん、と、そう吹っ切れた途端、クラシック音楽のあまりの素晴らしさに「しまった、こんなことならもっと早くから親しんでおけばよかった」とちょっと後悔した。数十年、遠回りしたけれど、こうしてなんとか生きているうちにたくさんの美しい音楽に触れてそれを自分なりに感じることができたことについては、ああよかった、間に合った、と胸をなでおろしている。 この映画の最後の方に、グルダがモーツァルトを弾いている箇所が出てくる。「ソナタ・ヘ長調K332」と字幕には出ている。モーツァルトのソナタのことなんて全然知らない(一つだけ知っているのは、お母さんが亡くなった知らせを滞在先のパリで受け、その時に作曲したというイ短調のソナタのこと)ので、それがどんな位置付けの曲なのか、私にはわからない。 けれどこれはまた、なんとキラキラとした詩情あふれる美しい曲だろう(装飾いっぱいだけど、それが全然興ざめじゃない)。 映画自体は結構長いので、是非見てくださいとお勧めするのは気がひけるけれど、備忘録のつもりで、感じたことを数点メモしてみました。それにしても、こういうものがYou Tubeで観られるというのはすごい。映画館という空間が今でも好きだけれど、たまにはこういう風に仕事机で(全然予定になかった)映画を見てしまう、というのも悪くはないね。
by michikonagasaka
| 2016-10-26 06:26
| ピアノとか音楽とか
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