序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
ライフログ
twitter
最新のトラックバック
以前の記事
2022年 02月 2020年 07月 2020年 04月 2020年 03月 2020年 02月 2020年 01月 2019年 12月 2019年 11月 2019年 10月 2019年 09月 2019年 06月 2019年 05月 2019年 04月 2019年 03月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 11月 2018年 09月 2018年 07月 2018年 04月 2018年 02月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 10月 2017年 09月 2017年 05月 2017年 03月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 07月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 01月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 07月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 05月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 10月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 検索
その他のジャンル
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2019年 04月 14日
結論から言うならば、世の大勢に反し、私が瞬間反応的に抱いた感想は、ある種の違和感だった。人間付き合いの上でも、何か表現されたものを見聞きした際にも、微かな違和感、時に大きな違和感を抱く場合には、一瞬、立ち止まってその違和感が一体どこから来るのだろうということを考えてみる。とりわけ、拍手喝采の音が喧(かまびす)しければ喧しいほど、なぜ、自分はそこに「乗っかれないのか」ということを考えてみる。それが物心づいた頃より習いとなっている、いわば私の癖である。 そう、今回もまた、私が見聞きする限り、氏のスピーチは各方面から拍手喝采を持って迎えられ、よくぞ言ってくれた、という共感が共感を呼び、そのこと自体が今、日本社会が置かれた状況を物語っているように思われる。だからこそ、そこに素直にまっすぐに乗っかれない自分は、一体なんなんだろうか、という疑問が湧いてくるのである。 祝辞全文はこちら↓に載っている通り。 ちょっと想像してみる。自分が今年、東大を受験して合格し、この会場に座っているという状況を。私はついこの間までどこかの高校に通っていた。制服を着ていたかもしれないし、私服だったかもしれない。共学校だったかもしれないし、女子校だったかもしれない。塾に行って勉強したのかもしれないし、そうでなかったかもしれない。家族に東大出身者がいるような環境から来たかもしれないし、家に本などほとんどないような環境からやってきたかもしれない。東大の場所を前から知っていて地下鉄乗り換えがスムーズにできる東京出身者だったかのしれないし、どこか離島の出身だったかもしれない。たまたま偏差値が高かったから自然にこの大学を受験したかもしれないし、ある学問のある分野に興味があって、それを学ぶ場として東大を選んだかもしれない。受験英語で精一杯だったかもしれないし、帰国子女だったかもしれない。親が日本人じゃないかもしれない。そしてもちろん、女子学生ではなく男子学生だったかもしれない。 そう、100人東大生がいたら、100の事情や理由やバックグラウンド、そして性格や気質がある。そういう聴衆がその日はそこに集まっていたはずである。入学式祝辞は、そうした「多様な若者たち」に向けての祝いの言葉である。マジョリティを占める男子学生の大半は、相手が頭が悪いからレイプしてもいいなどという発想とは無縁の人だと思う。それどころか、女子とまともに目も合わせられないオクテかもしれない。同性愛者かもしれない。少数派の女子学生の中には、すでにジェンダー意識が根付いている人もいれば、そんなこと考えたこともない人もいるだろう。女子校からいきなりここへやってきて、いきなり数の上で圧倒的なマイノリティである自分を発見し、居心地の悪い思いを抱えている人もいるだろう。同性愛者もいるだろう。そんな彼らの顔を思い浮かべながら、氏のスピーチで「傷つく」とは行かないまでも、疎外感を抱いた人が少なからずいたであろう、とまずは想像するのである。 30数年前、ちょうど私自身がこんな風に大学入学式に参列していた。満開の桜がぶり返した寒さで少し縮こまってるような花曇りの日だった。場所は京都大学の体育館。で、どんな祝辞だったのだろうと思い返しても何一つ覚えていない。式の途中、突然、赤ヘルか革マルかわからないけれど、そういう学生運動の人たちが棍棒や拡声器を手に乱入してきてちょっとした騒ぎになった。生まれて初めて目にするそんな光景に呆気に取られ、祝辞どころじゃなかったからである。 今はどうか知らないが、あの頃の京大は女子が最も多い文学部でさえ、200人中、女子は40人いるかいないか。工学部などは女子皆無の学科も多かった。上野氏祝辞に「女子学生お断りのサークルがある」「学外では大学名を言わない女子がいる」というくだりがあるが、そっくりそのまま当時の京大の状況そのものである。だからといって我々女子学生が奮起して差別と戦い、声を上げたかといえば、そんなことは実は全然なかった。学問を志してやってきた人もいれば、高校で成績がよかったからなんとなくきた人もいた。けれど総じて我々女子学生は自分に自信がなかったと思う。東大はどうか知らないが、京大女子の大半は取り立てて野心もプライドもなければ強いパッションとも無縁。控えめで大人しい感じの人が圧倒的だった。そんな私たち、「京大女子はブス」と言われ、「嫁の貰い手がいない」と言われ、その上、就職でも「使いにくそう」と敬遠される。じゃあ研究職にでも行くかと思ってみても、博士課程までいったところでその後の大学教員採用では多くのケースで男子が優先される。「何をやってもダメな私たち」「世間で浮かばれない私たち」の多くはそんなわけで、卒業したら故郷に帰って公務員か学校の先生にでもなろうか、そのくらいしかできることないし、という意識だったのである。先輩に上野千鶴子先生がいるんだよ、と聞いても(当時、氏は京大大学院を終え、京都の平安女学院というところで先生をされていた)、あまりにレベルが違いすぎて、というか自分たちにガッツがなさすぎて、到底ロールモデルにはなり得ず、むしろ、自分たちの意識の低さを怒られそうでおっかない。大変恥ずかしながら、その程度の認識でしかなかった。 大人になって久しい今、そして日本の外で30年以上暮らしてきたことも一役かっているだろう、気弱なかつての女子学生だった私も今では普通にジェンダー意識はあるし、差別的な構造の被害者であるばかりか、自らもまたその構造を維持発展させていく役割を担わされてきたことも十分に理解している。上野氏のような先人が切り開いてきた土壌の上に乗っかって、その果実を呑気に享受しつつ、まだまだ全然足りない点、逆に後退した点、制度や人々の意識におけるジェンダーバイアスのようなことにも人並み以上に意識的な方であるとは思う。祝辞の、とりわけ後半部分の趣旨そのものに関しては、ほぼ全面的に賛成だ。 にもかかわらず、のこの違和感。 それはたとえば「たとえ難民になっても」とか「世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体を壊したひと……たちがいます。がんばる前から、「しょせんはおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます」といったフレーズにおける、ある種の選民意識的な大前提が引っかかるからかもしれない。 「私たち、君たちは恵まれていて、その他の可哀想な人達、がいる」という二分法が、私自身の倫理観、いやそんな大したもんじゃなく、単なる好み程度かもしれないが、とにかくそことずれるところがある。たとえ東大に入ったとしても、今、この瞬間に辛いことがあったり、心や体のどこかが具合悪かったり、いわゆる「恵まれた家庭」というものを持たぬひとだっているだろうに。「東大生=優秀で恵まれた特権階級」という紋切り型のカテゴライズを前提とし、難民を「あっちの人」と区切る、そういうナラティブに対しての苦手意識といったらいいだろうか。 そう、この祝辞には、その内容の正当性や良き意図にもかかわらず、かつてのおどおどした京大女子学生だった自分はおろか、長年の異文化暮らしの中で被差別の経験なども順当にこなしてきたいい年した海千山千おばさんをも気後れさせる何かがある。 ついでに言うならば、この件をきっかけに、入学式会場の写真もいくつか目にしたが、リクルートも顔負けの「同じ格好がずらりと並ぶ」この感じ。これは少なくとも30数年前にはなかった。私自身は割とミニ丈のチェック柄のツーピースを着て花曇りの入学式に臨んだことを覚えている。みんなそれぞれ好き勝手な格好をしていた。何しろ赤ヘル乱入もアリという無秩序ぶりがデフォルトだったくらいなのだから(この点から推察するに、同調圧力という点では日本社会は「後退した」気がする)。 そしておぼろげすぎる入学式の記憶に比して、案外鮮明に残っている卒業式の記憶。そこには在学中に学生運動とか原理などの方に行ってしまい、そのまま姿を消して二度と戻ってこなかった数人の空席があり、落第した人たちの空席があり(8年まで在籍できるから、まだ4年あるでぇ〜、と豪語していた人もいました)、そして総代(たぶん一番優秀な人がなるのでしょう)を務めたのは文学部西南アジア史専攻の女子Kさんだった。当時の意識ではアファーマティブアクションという発想はなかったはずなので、彼女は男女関係なく、純粋に実力で選ばれたんだと思う。物静かなアニメ好きだったKさん、卒業と同時に結婚し、いつしか別れてアメリカでPhDを取ったというところまでは聞いていたけれど、今はどこでどうしているのだろう。彼女なら、上野祝辞にどんな感想を抱いただろうか。
by michikonagasaka
| 2019-04-14 18:39
| 考えずにはいられない
|
ファン申請 |
||