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序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2007年 05月 21日
![]() 同じ時期に京都に生息していた昔の友達から、ひょっこりとこの本が送られてきた。題名は「京都の平熱」。なにやら、意味ありげである。中に挟まっていたメモみたいな手紙には、「この本の中には私の感覚にかなり近い京都がありました」とあった。 どれどれ、と、私も読み出したのだが、読み終えるのに結局、だらだらと二週間以上もかかってしまった。 それは、畏れ多くも私の大学の先輩にあたる哲学者、鷲田清一氏が、市バスの206番に乗って、京都の町をぐるりと一周しながらあちこちで途中下車したり、脇道で道草したりしながら「よそ者」に京都を案内してまわるという体裁の読み物。読了するのに思ったより長くかかってしまったのは、おそらく、この本に、かなり共感したらしい友達とは異なり、私はむしろ、読みながらずっと、どこかのけ者にされたような感覚を抱き続けたからだった。 なぜ、のけ者か。 それはまず、あまりにも「男の子の京都」だった。ちょうど、私が通った京都の大学がそうだったように、この本の中に展開される世界も、どこか旧制高校的なものと連続した、ホモソーシャルな世界で、要するに私は自分の居場所が見つけられない。ああ、こういう感じ、あの頃私、毎日味わっていたわ、と、逆にその意味では懐かしくもあったが。 本書の中では、「あっち」の世界につながる孔の代表として、法悦の世界(神社仏閣)、推論の世界(大学)、陶酔の世界(花街)がたびたび挙げられる。孔、つまり世界が口をあけているところ、というのが京都にはまだまだいっぱいある、というのが筆者の持論で、それは確かにそうでしょう、とうなずけるところなのだが、こうした孔は、どこか女人禁制の匂いを濃厚に漂わせている。男の子だけで盛り上がれる世界、という感じで、女の子にはなんだかつまらないのだ。 のけ者感を味わった第二の、そして最大の理由。それは他でもない、私自身がよそ者であるという点。 生まれは争えない。そのことを私は、読後(というか、読中ずっと)、激しく思い知らされ、そして単純に悔しい思いをしたのだった。京都ほどの、語るに足る町にたまたま生れ落ち、そこで育った者が、私はただただ羨ましい。私自身にはそうした語るに足る町の記憶というものがまるでないからだし、また、よそ者としてではあるが、私もまた、京都に特別の思いと愛着を抱く人間であるからだ。 男の子の世界(=宇宙人の世界)に間違えて足を踏み入れてしまったような、あのどうしようもない居心地の悪さを常に抱きながら、私は206番ではなく、5番のバスと共に4年間、あの町で暮らした。206番からはみ出た外側の、北の果てのほうへと、その5番のバスは上っていく。四条河原町、平安神宮、岡崎、南禅寺、銀閣寺といった華やかな名所停留所のオンパレードも、やがて、観光客の姿もまばらなエリアに取って代わられ、同乗する客は、貧乏くさい学生ふうとか、くたびれ果てた勤労者、そしてやたら多い老人たちといった面々ばかりになっていく。終点の「岩倉操車場」という名がもたらす、あの「地の果て」感。実際に、市の中心部とは気温も5度は違うといわれるほどのその「僻地」の少し手前に、私のささやかな下宿はあった。前のほうの一人席に空きがあれば、いつもそこに脚を折りたたむようにして陣取っていた5番のバスの「旅」(それは紛れもない日常だったけれど、やはり「旅」に近いものだった)を、本書を読み進めながら何度も思い出し、そしてそのたびに少し胸苦しい思いにとらわれた。 東京では、いや、ご近所の神戸あたりでも、当時は女子大生ブームの花盛り時代で、雑誌の誌面などで目にする彼女たちは、どの子もどの子も、それはそれは華やかで楽しそうにみえるのだった。そんな時代に、なんで私はこんなむさい男の子の世界で、哲学の(それも中世哲学ですから!)勉強などをしているのだろうと、自分で選んで決めたこととはいえ、実に忸怩たる思いで日々をやり過ごしていたものだった。そして切ないほどの懸命さで、少しでも「今ふう」にしようと、あれこれ工夫し、骨を折り、ときに自分を偽ったりもしたものだった。 「そうだ、京都、行こう。」というポスターを新幹線のなかで見つけ、「あれはこれから帰るんだ」と、半分自尊心をくすぐられながら新幹線の席に座る京都人は、これまたすくなくないとおもう(本文より) そうでしょうとも。 京都生まれの人っていいなあ、と思う。いくらあとになって愛してみたところで、地元には到底かなわないし、「私、京都人なんで」と、軽くいばってみせることもできないからだ。だが、「そうだ、京都、行こう」のポスターをみて、いそいそと京都に出かけてみようと思いつくほどには、やはりよそ者ではない。そういう中途半端な位置からしか、京都を愛せないとは、つくづく不運だと思う。ことは京都に限らない。私が京都と並んでもう一つ、自分からアクティブに愛した町、パリにしたって、話は同じこと。語るに足る町、自分にとって大きな意味を持つ町に、たまたま生まれ落ちた人すべてに対し、私は決して生涯克服できそうにないジェラシーを抱くのである。
by michikonagasaka
| 2007-05-21 06:39
| 本
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