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序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2009年 02月 27日
先日、画家の友人Sに誘われ、チューリッヒに出来たばかりの画廊で開かれた個展のヴェルニサージュに出かけた。画廊のお披露目であると同時に、ベルリン在住のその画家の新作品のお披露目でもあり、寒くて暗い夜だったが、満員御礼のにぎわい。
シャンパングラスを片手にあちらこちらでおしゃべりの輪ができて、その輪から輪へと画家のP、そして画廊オーナーのDが社交好きできまぐれな蝶のように飛び移っていくさまを横目で見ながら、友人Sはぼそりとつぶやいた。 「耳で見る」 「へ?」 そのレトリカルな表現に一瞬、私の思考は停止し、そしてすぐさまびゅんびゅんと再稼動しはじめた。 彼女はなにも、そこに集まっている客を揶揄してそういったのではなく、「あくまで一般論として」そういったのだが、「(視覚芸術としての)アートを見るとき、目で見る人と、耳で見る人がいる」ということ、いや、むしろアートの鑑賞の仕方として「目で見るそれ」と、「耳で見るそれ」がある、という意味のことを彼女はいいたかったのだ。言うまでもなく「耳で見る」とは、評判や市場価値などの情報でその絵のよしあしを判断すること。現代アートの価値が、その多くの部分、投資家や画商の思惑による大規模な価格操作による賜物であることくらい、今さら指摘するまでもないわけだが、上は国際的な現代アートショーやオークションハウスを舞台にしたレベルから、下は一般庶民の美術館訪問まで、あらゆるシーンで「耳で見る」ことは普通に行われている。 スイスは裕福な国で、芸術愛好家やコレクターもたくさんいる。だが果たしてそのうちのどのくらいの人が、絵を目で見ているのか・・・・。シャンパングラスを手にしておしゃべりに興じる客の姿をみながら、そんな疑問が彼女の頭をよぎったとしたら、それはとってもナチュラルなリアクションだと思う。 たまたま先週、仕事で訪れたバーゼルで時間があいたので近くの美術館でやっていたピカソの版画展をのぞいた。美術館に行くたびに、心の奥底、無意識の深いところのあたりで、ほんのわずかの居心地の悪さのとげみたいなものがちくっとする。それを今回も感じて、あーあ、やだな、また出たよ、とそのとげに砂でも泥でもかけて隠してしまいたい気分になった。 その「とげ」とは、いうまでもない「耳で見る自分」に対する嫌悪感のとげ。 ピカソは大好き。ぞくぞくするくらい大好き。すべての画家の中で一番好きなのはピカソとゴーギャン。それは確かにそうなのだが、でも、こうして一枚一枚、彼の手になる作品を見て回りながら、私の目は作品の横の小さな説明書きのところを必死に追ったりしている。作品を見ながら、全然別のことを考えてぼーっとしたりしている。そうしておいて一巡してから、最後にパンフレットなどをいただき、ポストカードの数枚も購入して満足げに美術館をあとにする。 あ~やだやだ。私はピカソが超有名な巨匠だから、今日ここにこうして来てるわけ?? これらの版画が製作された背景なんかを知ることで、どのような芸術的、いや知的好奇心が満たされるというわけ? そんな疑問が次々わいてくるのが、どうにもうっとうしい。 それはひとえに自分が「俗物」というカテゴリーに含まれるのがいやだから、「ブルジョワ」的な人として自分が存在するのがいやだから、に他ならない。芸術の「周辺的な価値」に惑わされることなく、一直線にそのエッセンシャルなところに向かいたいと願う、そういう希求そのものが、すでに充分俗物的であることに気づいているからこそ、ますますうっとうしい。 「好き」か「きらい」か。絵が大好きな8歳の娘と一緒に美術館に行くと、彼女はものすごくシンプルに絵を二つのグループに分ける。そうして「好きな絵」の前には長々とたたずみ、そしてああでもない、こうでもないと寸評する。逆に「きらいな絵」のほうは足早に素通り。実に堂々としたジャッジメントで、これだけはかねがね脱帽の思いでながめていた。 「耳で見る」――そういえば、それはなにも芸術作品に限ったことではない。洋服を買うとき、セレブの誰それが着てるとか、○○ブランドのものだとか、どこやらのセレクトショップが入れてるだとか、そういう部分に私たち消費者はずいぶんと影響されるものだ。いや、洋服はいいのだ、それで。そもそも洋服そのものがそれを通して自分の社会的位置とか属するタイプなどを表現する「記号」という手段に過ぎないのだから。 ・・・トラムの窓越しにバーゼルの豊かで清潔な町並みを眺めながら、そんなことをぼそぼそと考えていた。
by michikonagasaka
| 2009-02-27 01:06
| 考えずにはいられない
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