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序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分以上になりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「パリ妄想食堂」(角川文庫) 近著 「神話 フランス女」(小学館) 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」)(KADOKAWA) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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2009年 06月 16日
![]() 障害者の「害」の字にはマイナスのイメージがあるため、これを平仮名表記することに――2006年に、もともとは公明党のイニシアティブだった提案を受ける形で、各地方自治体やいくつかのメディアが独自の見解でこれを採用した。そんなニュースの断片をその頃どこかで見聞きして「ふーん、またやってるのか」と、そのときは違和感を覚えつつ、フォローするのも面倒でそのまま流していた。 日本に住んでいないと、いくらネットやときどき送られてくる雑誌媒体などがあるとはいえ、圧倒的に日常の活字媒体に触れる機会が減るため、実はこれまでこの平仮名表記の「実例」を目にすることがなかったのだが、先日、日本の新聞を読んでいたらたまたまこんな求人広告が目にとまり、いまさらながら「うーん」とうなることに。 こういう発想を「言語狩り」「本末転倒」「重箱の隅」などといって批判する人はたくさんいるから、私はそこには敢えて加わることをせず、ただ、これを純粋に言葉のセンスという点からちょっと考えてみたい。 下の記事でも取り上げた水村美苗の「日本語が亡びるとき」にこんな一節があった。 ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し せめては新しき背広をきて きままなる旅にいでてみん。 という例の萩原朔太郎の詩も、最初の二行を 仏蘭西へ行きたしと思へども 仏蘭西はあまりに遠し に変えてしまうと、朔太郎の詩のなよなよと頼りなげな詩情が消えてしまう。 フランスへ行きたしと思へども フランスはあまりに遠し となると、あたりまえの心情をあたりまえに訴えているだけになってしまう。だが、右のような差は、日本語を知らない人にはわかりえない。 (「日本語が亡びるとき」筑摩書房) 私自身は、物を書くとき、平仮名、カタカナ、漢字(その場合は旧字を使うかどうかも含め)の使い分けには、これでもかなり気を使っている。とりもなおさず、その視覚的差異がもたらす意味やニュアンス、情感のエクステンション(広がり)までをも意識しているからだ。もちろん日本語を解する人と一口に言っても、各人の言語経験の積み重ねによって、同じ表記から受け取るエクステンションにも当然バリエーションはあるが、最大公約数的な、ある程度普遍的に喚起されるエクステンションの部分は一種の大前提のはず、という信頼の上にたって、そうしているのである。 そうしたところへもってきて「障がい者」に出くわすと、やはり「うっ」と詰まってしまうというか、それこそ段差などの障害物(obstacle)のある道路をそれと知らずに車で走っていて、突然ガックンと来るような、そんな座りの悪い感覚を抱く。 「障害者」でも「障がい者」でもあまり変わらない。表記ごとき枝葉末節をいじくったところで、本質は変わらない――そういう形で、この平仮名表記に異を唱える文章をかなり目にしたが、私に言わせればとんでもない、「障害者」と「障がい者」とでは、受ける印象は全然違う。「害」を「がい」にしたとたん、そこ(がい)は、まるでスポットライトを当てられたみたいにふわりと浮かび立ち、左右の漢字たち(障と者)を背景へと押しやってしまう。ニコニコ笑いながら「主役はわたしよ」と、まるで少し開き直ったようなふてぶてしさで前方へ身をそり出してくる「がい」の姿は、異様であり、どこかグロテスクですらある。 福祉系のNPOとか、介護施設、愛好会、あるいは健康雑誌のたぐいには、やたら平仮名表記ものが多い。もともと大和言葉ならばともかく、本来は漢字表記するのが自然な漢語、あるいはカタカナ表記するのが自然な外来語などを「敢えて」平仮名表記することでそこにねらわれている効果は、なんとなく優しくてほっこりとしていて温かい雰囲気、というのが定番。 すぴりっと はにぃぐるうぷ すいーとぴぃ まいんど はーとふる きっずくらぶ 言語センスの違いはいかんとも超えがたい障壁だということを、このタイプの文字列に接するたびに感じる。 上掲の「ふらんす」にしても、萩原朔太郎の時代だったら「ふらんす」でいいけれど、いまどき、真面目な顔して「ふらんす」などと書いたら、よっぽど限定的な効果を確信犯的に狙っているのでないかぎり、それこそ時代錯誤の「おフランスかぶれ」と笑われそうだ。 そう、「障がい者」という表記は、やはり滑稽でちょっと人をおちょくっているみたいに見える。せっかく「障害者の人権」に配慮しようという(とりあえずは善意の)意図でしたこととはいえ、これじゃあ、すっかり逆効果。善意の人がセンスに欠けていると、結果はグロテスクとなる。なーんて、そんなこといっちゃうと、どこかから「けしからん」としかられそうだけど。でも思うのだ、倫理の分野にすら、ある種の美的センスは絶対必要だ、と。
by michikonagasaka
| 2009-06-16 18:59
| 考えずにはいられない
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