序文にかえて
パリを皮切りに、アメリカ、ロンドン、そしてスイス等、国外が人生の半分くらいになりました。多様な人々や文化や言葉に晒されるのがごく当たり前の日常。その中で色々なことを思ったり考えたりします。音楽と文学と哲学とお洒落とお酒が、たぶん一番好きなことですが、昨今の国内外の状況には、いつまでもapoliticalでいられるはずもなく、ここでもときどき政治のことを書いたりします。
最新刊 「神話 フランス女」 近著 「難民と生きる」(新日本出版社) 「旅に出たナツメヤシ」(角川書店) 執筆依頼、その他、お問い合わせはmnagasakaアットマークbluewin.chまで カテゴリ
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1 2013年 01月 31日
![]() 東京新聞のこんな記事を読んで、ああ、また、と、格別驚きはしなかったけれど、でも朝っぱらから暗い気分になった。そして、こういう報道がメインストリーム媒体にはまず滅多なことでは出てこないということも改めて痛感した(なぜなら、朝日もNHKも日経も、これは完全スルーだったので)。 そこから突然話は飛躍して、今回、私は自分が人を眺めるときに一種の「踏み絵」として自らに課している基準というものについて書いてみようと思い立った。 その「踏み絵」というのは、例えばの話、今、私たちがナチスのドイツにいたとして、いや、ドイツじゃなくてもいい、ポーランドでもオランダでもフランスでもどこでもいいのだけれど、そのとき、我が身を守るために隣のユダヤ人を当局にチクるだろうか。積極的にチクるというところまでいかないにせよ、黙りを決め込むだろうか。それとも、なんとか身を挺してそのたった1人のユダヤ人をかくまったり、逃したりというリスクをとるだろうかーーという「想定」をかけてみるのである。 もちろんこれは単なる比喩であって、別に相手はナチスドイツじゃなくてもいいし、かくまう相手もユダヤ人じゃなくてもいい。状況も戦争という「特殊なもの」である必要はない。 ここぞという局面において、内なる声に正直になれるだろうか。どう考えてもこれはおかしい、よくない、とその内なる声がささやいているとき、たった1人の隣人、たった1人の家族、たった1人の友人のために一肌脱ぐ勇気を持ち得るか、たとえそれが重く面倒な状況であったとしても。そう、それが私が自らに、そして出会う人相手にこっそり課している「私的踏み絵」なのである。 「汚染水、海へ放出検討」の影には、無数の「踏み絵」テスト失格者の姿が垣間見える。「う〜ん、これはマズいんじゃないか」と思いつつ、けれどそのかすかな疑いにはすっぽり覆いを被せて、(自分や、自分が属する組織にとって)無難で日和見的で保身的な判断をくだす、そういう無数の人々の顏のない顏が見えてくる。 困ったことにそうした無数の人々の多くは、最高学府出身の国のエリート的な人たち。無知蒙昧の庶民が犯す「過ち」と、エリートが犯す「過ち」との間には、同じ過ちとはいっても、質的な、そして責任という上での根源的な違いがある。一生懸命受験勉強して受験戦争に勝ち抜いて東大や京大みたいな学校に行く人々は、入学試験や就職試験だけでなく、私が勝手に想定するささやかな私的踏み絵にも合格してもらわなくちゃ困るのである。 とはいえ、かくいう私だって、別に高邁な理想とか高い倫理観などというものの上にあぐらをかいて暮らしているわけでまったくない。弱虫で意気地のない情けない人間の1人に過ぎない。そして構造上の病、あるいは危機的状況における人間の「機械の部品化」「猛獣化」、そういう人間の性についての認識も、一応人並みには持っている。 けれどね、「まあ仕方ない」とスルーする、臭いものには蓋をしてその場しのぎで流していくというのが、やはりいただけない、と思うのである。それ、卑小じゃん、と感じるのである。スルーする一人一人はほんの小さな粒に過ぎないけれど、それが集団のうねりとなる、そういうモメンタムを未然に防ぐのは、政治家でも社長でもなく(まあ、それも一助にはなるけれど)、やはり小さな粒一つ一つ以外にない、というふうに思うのである。 東電の社員だって、その多くはよきパパだったり、よき夫だったりするんだろうと思う。霞ヶ関のお役人たちも、心底腹黒い人はそんなにいないだろう。NHKや朝日新聞にも、良心のかけらは山ほど転がっていることだろう。 お国の一大事というハイレベルな場所でなく、私たちのまわりのささやかな日常の中にも踏み絵的局面は無数に存在している。私一人がこんなところで躍起になってみたところで、もちろん何一つ変わらないのだけれど、自分の矜持というただその一点だけのために、私は私の踏み絵を自らに課し続けていく後半生をやっていくしかない——加藤周一氏の小説「ある晴れた日に」、そしてフランクルの「夜と霧」を旅のお供にしながら。 ▲
by michikonagasaka
| 2013-01-31 20:07
| 考えずにはいられない
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2013年 01月 25日
![]() 12歳の娘が学校から戻るなり、コートを脱ぐ間ももどかしく「これ、見て見て」とYouTubeのクリップを見せてくれた。water4allというプロジェクトをクラスのみんなと立ち上げ、アフリカのとある村に井戸を一つ掘るための資金を集めるのだという。 たまたま今、社会の授業で自然資源について学習していて、その一環として自分たちでできるチャリティプロジェクトを考え、そのPR&資金調達用にウェブサイトもデザインしたんだという。 そうかそうか、それはなかなか頑張ってるね、いいプロジェクトだね、と私も感心し、早速フェイスブックでシェアすることにした。 昨年秋より地元のインターナショナルスクールに転校した娘は、それまで通っていたフレンチリセとの勉強法の違いやクラスメートの雰囲気の違い、そして学習言語の激変(フランス語→英語)に翻弄されること数ヶ月。だがその間、彼女は新しい環境に懸命に馴染み、そして今や、インターが積極的にサポートする「地球市民育成教育」にすっかりからめとられている。それを親の私はなかなか好ましいことであると観察し、そして非力ながら助力も惜しむまい、と自分に言い聞かせている。 娘には日本に同い年の従姉がいる。その従姉が今年中学受験を体験し、つい数日前、めでたくも志望校への合格の知らせが届いた。ところが、「駄目もとでついでに受けた」もう一つの学校も受かってしまい、さて、どちらに進学すべきかという難しい選択を迫られた。しかも一つの学校は入学金の支払いが合格発表の二日後と設定されており、そちらに行きたければまずはこのお金を振り込まなくてはいけない。さあ、困った! 悩んで悩んで頭がぐちゃぐちゃになりそうだった姪は、私に電話をかけてよこした。 「おばちゃんだったらいいアイデアがあるかなと思って」 受験の前日には、その姪に電話で励ましの言葉を届け、ついでに「スイスからおばちゃんのとっておきの“気”を送っとくよ、これ、すっご〜くよく効く“気”だからね」と、まるでスーパーパワーの魔法使いみたいなことまでいって、ともかくは姪の健闘を祈ったものだった。だから彼女の快挙は飛び上がるほど嬉しいものではあったけれど、さて、どちらの学校がいいかと聞かれても、さすがに私はあれこれ意見を言える立場にはない。 スカイプ前半は、だから、それぞれがどんな学校かをよく知らぬまま、思いつくことをあれこれしゃべって、そして「でもさ、最終的には◯◯ちゃんがピンとくるほうの学校にしたらいいんじゃない?」というようなことを言った。そして「でもね、ちょっと待ってて。これからおばちゃんはその学校のことをちょっと研究してみるから。で、あとでもう一回話そうよ、ね」と締めくくり、まずはいったんスカイプ電話をオフにした。 それから私は大急ぎでその二つの学校のサイトに行き、沿革から教育方針、生徒の横顔から進路状況に至るまで、目をさらのようにして両校がどんな学校なのかを感じ取ろうとした。一つは国立大の付属中学で中高一貫の共学校。もう一つはカトリック系の女子校。ここ数年来の姪の第一志望は後者のほうで、付属のほうは「まさか受かんないよね」と思いながらも塾の先生にすすめられるまま、大して思い入れもない状態で受けたんだという。 生半可な知識で姪の判断に大きな影響を与えてしまうのはよくないだろうと思いつつ、それでも私は両校のサイトから感じたこと、そして私自身が高校受験のとき、どんな風にして学校を選んだか、その学校のよかったところ、よくなかったところ、それが後の人生に及ぼしたと思われる影響といったことについて、あれこれ話して聞かせた。 合計2時間あまりもスカイプして、なにやら進路指導の先生にでもなった気分だったが、赤ちゃん時代からよ〜く知っている、この聡明で個性的な姪が、自分の個性を伸び伸びと生きられ、それを開花させられる環境、というただその一点だけが私にとっての学校選びの判断基準だった。 片やアフリカの村に井戸を掘るプロジェクトに奔走する娘。片や中学受験をやっと終えた姪。生育環境も学校の様子も話す言葉も大きく異なるこの2人の12歳の女の子たちの頭と心の中で起こっているたくさんの嵐や竜巻に思いを馳せ、どういう教育が、どんな学校が、どういった親の態度やサポートがこの子たちのポテンシャルを大きく花開かせるのにふさわしいのかな、ということを考えた一日だった。 ちゃんとした大人の言葉は、まだまだ幼く見える子供にも案外届くものである。相手を子供扱いすることなく、適当に流すことなく、きっちりと向き合ってやると、その“気”は思いのほか、通じていたりもする。たとえ相手が子供であったとしても、常套句や世間の常識といったものでごまかさないで、彼らのために選んだ言葉で彼らに向かって話す、というのがたぶんいいものらしい。 そしてときには、彼らの中に自然につくられている「枠」をとっぱらったり、ぶち壊したりするような発想をも注ぎ込んでやる。「赤信号では止まらなきゃいけません」と規則をおうむ返しに伝達するのでなくて、「赤信号でも車がいなけりゃ渡っちゃえばいいじゃん。ね、そう思わない? よっしゃ、わたるぞ〜」などといって一緒に手をつないでゲラゲラ笑いながら渡っちゃう、そしてその後に「そもそも規則ってのはさ、別に規則だからやみくもにしたがってりゃあいいってもんじゃあないんだよ。なんでそういう規則になってんのかな、と考えないと」などと涼しい顔をして言ってのける、というように。 姪が合格した二つの学校のサイトには、教育理念としてそれぞれ「国家社会の優秀な成員を育成する」「産み育てる性としての女性教育」というようなことが書かれてあり、そのいずれにたいしても正直なところ私は「え〜、いまどきそんなこといっちゃうわけ?」と首をかしげたのだったが、それでもその陳腐な常套句的表現の後ろに見え隠れする「本音」のところ、そしてなによりも、在学生徒にどんな子たちがいるのかな、という部分をなんとか感じ取ろうとした。 娘と姪。2人の12歳が、世界に開かれた自由な思考のできる若者に育っていってくれるといいな、と思う。そのためにママは、おばちゃんは、貸せる手があれば喜んで惜しみなくこれを貸してやろうと思っている。 (というわけで、まずは上記のリンクへのサポート、よろしくお願いしますね!) ▲
by michikonagasaka
| 2013-01-25 17:01
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2013年 01月 25日
![]() 「あら〜、なんか永ちゃんモード入ってる!」 昨日、ランチの待ち合わせに少し遅れて到着した私に、友人が開口一番放った台詞がこれだった。 「そお?」と改めて自分の姿に少し客観的な視線を這わせてみれば、なるほど、気持ちロックンロールといえなくもない格好ではあった。 「道子さんはね、こう見えても不良好きの人だから」 もう1人の友人に向かって最初の友人がそう補足した。 何を隠そう、15歳の私は矢沢永吉、いや当時はまだキャロルというバンドにおける矢沢永吉だったのだが、とにかく彼と彼のバンドに象徴される世界にぞっこんなのであった。地方都市の公立高校生だった私には、都会的な高級な趣味とかエリート主義的なスノッブな嗜好というのはおよそ別世界の出来事で、ネットもフェイスブックもない時代にあっては、せいぜいが高校生向きの雑誌とか友人との会話を通してしか外の世界とつながる手段はなく、そうしてつながったささやかな外の世界に、かの矢沢永吉は威風堂々とそれはそれはかっこよく君臨していたのであった。 予定調和的優等生モラルが、ただ何となく性に合わないという、ただそれだけの理由で、私は「不良」がカッコいいと信じ込み、自分もその流儀を真似してみようとあれこれ工夫したものだった。三つ子の魂百までとはよくいったもので、15の魂はかくして現在に至るまで、私の中にその火を完全に消し去ることなく、ひっそりと生き続けている。そしてその結果、いや現れが、冒頭のロックンロールもどき(といってもごく控えめ)の「イケテル不良中年女」的装いとして開花するわけである(自分で「開花」などと、そんな厚かましいことをいってはいけない、すみません)。 そういう自分が一方に厳然と存在して、けれど、他方には、シモーヌ・ド・ボーヴォワールを「すごい」と思う自分がいる。小林秀雄に畏怖の念を抱き、ミラン・クンデラを溺愛し、ミシェル・フコー頭いい、と感動する自分がいる。矢沢永吉とシューマンの両方を愛するとは、いったいどういうことだろうかと途方に暮れる自分がいる。 思えば物心ついた時分より、そうした「自己分裂的嗜好や好み」ほど、この非力でどっちつかずの自分を苦しめてきたものはない。その苦しみ、いや呪縛を懐かしく思い出したのは、実は今日、あるきっかけでサルトルとボーヴオワールの古いインタビュー映像を目にしたから。「懐かしく」と書いたけれど、もちろんそれはいまだに「すべて解決」されたわけではなく、相変わらずもやもやとくすぶった状態で自分の中にあり続けているものではあるが、それでもさすがに年の功、「折り合いを付ける」という知恵が少々身について、最近は苦しみも大いに軽減され、ほっと一息ついているところではある。 さて、このインタビュー中、サルトル氏はシモーヌのことを「カストール」という愛称で呼び、そして自室のバルコニーから「ほら、あそこ」と、その恋人カストールの住まいをインタビュアーに指差してみせる。 そう、サルトルとボーヴォワ—ルは50年続いた恋人同士だったけれど、一度も一緒に住むことがなかった。お互いを敬愛し慈しみつつ、けれど互いの自由を束縛しないということで合意した2人は、モンパルナス界隈の別々のアパートに住んで、午前中はそれぞれ自分の仕事に没頭し、そして午後、2人はサンジェルマンのカフェで逢った。2人きりのときもあれば、友人を交えたときもあった。場所もいつものカフェだけとは限らず、誰か共通の友人の家だったり、どこか別の店だったりもした。 そういう関係を彼らは「ユニオン・リーブル」と呼び、その新しい熟語は当時のフランスで一種の流行語、社会現象にさえなった。彼らの真似をして「あえて結婚しないカップル」が後を絶たなかった。 サルトルは狭苦しいシングルベッドと散らかった机の置かれた小さな部屋で、ベトナム戦争について、実存主義について、カンディンスキーについて、インテレクチュアルのアンガージュマンということにについて思索を深め、言葉を選び、筆を運ばせる日々だった。ボーヴォワ—ルは、お行儀のよいブルジョワ家庭出身女性という外見を一生さわやかに保ちつつ、「女は女に生まれるのではない。女は女になるのである」と言い切った。 ボーヴォワールのこのあまりに有名な言葉が、だがしかし、これほどのインパクトを世界に及ぼした理由のひとつは、他でもない、彼女自身が非常にフランス的な意味で育ちのよいフェミニンな女性であったことである・・・・と、門外漢の私はひょっとしたらひどく見当違いかもしれない妄想を抱いている。見当違いといいつつ、いや、きっとそうだ、とどこかで確信しているところもある。 それにしても、ユニオン・リーブルとは、その誕生から長い時間を経た今もなお、またなんと素敵であり続けるコンセプトだろうか。矢沢永吉とシューマンの両方を愛する私のような人間には、もしかしたら因習的な「家族」とか「結婚」という形態よりも、ユニオン・リーブルみたいなスタイルのほうが合っていたのかもしれない。そんな暴言をこの期に及んで吐いてみたところでなんの甲斐もないことは十分承知している。背負った業は、責任もって背負い続けてみろや、と、自分を叱咤激励したくもなる。この弱虫、意気地なし、と愛想をつかしたくもなる。 そうはいうものの、一抹の寂しさ、こればかりはやはりいかんともしがたく、あとは仕方ない、ロックンロールのスピリットを心の奥底に大切に秘めつつ、よい子ぶってピアノの練習をして(でもこれは「ぶってる」だけではなく、本当に楽しい)、子供たちにはそれなりに「節度ある大人からの助言」を進呈しつつ、ああ、でも、そんなのね、さぼっちゃいなさいよ、大勢に影響ないんだから、枝葉末節にこだわっちゃだめ、本筋をみないと、などと時々本音コメントも露呈しつつ、そして「ママって、すごい変わってるよね。普通の親はそういうことはいわないもんなの」と子供から呆れ返られつつ、そんなふうにやっていくしかないのである。 自分がそんなふうだから、だから私は矛盾を抱え込む人に親しみを抱き、分裂的嗜好をかかえる人となんとなく気が合うのである。一筋縄ではいかない相手。それこそが一緒にいて楽しく、触発され、そして慰められる相手なのである。 ▲
by michikonagasaka
| 2013-01-25 05:34
| 考えずにはいられない
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2013年 01月 23日
![]() 大昔のこと、パリのアンヴァリッド広場を望むオスマニアン様式のアパートの一室に、私は年上の女友達を訪ねた。 その広々としたアパートに、ソフィーという名のその女性は、新しい恋人と一緒に住んでいた。以前に結婚していた相手は、ある著名な室内装飾家で、そして現在の恋人は、アメリカ人のシナリオライターだった。前夫との間にいずれも10代後半の一男一女がいて、確か男の子のほうはどこかに小さなアパートを借りて一人暮らし、女の子のほうはその頃はまだ母の家に暮らしていた。母親似の美人だけれど、母の金髪ではなく、父の黒髪を受け継ぎ、その潔いショートカットが小さな頭によく似合っていた。若い娘らしく、ジーンズに革ジャンといういでたちで、ヘルメットをかぶってボーイフレンドのバイクの後ろの席にさっと腰掛け、じゃ、またね、と風のように去って行く、そんな威勢のよいパリジェンヌだった。 どういうきっかけだったのか、その日、私はソフィーの寝室にソフィーと2人きりでいた。そして彼女が、なにか羽織るものを探そうとして私たちの目の前の洋服ダンスの扉を開けたとき、「そのこと」が起こった。 私は思わずあっと息のを呑み、まぶたを閉じた。扉の向こうからふわりと立ちのぼった香りが、あまりに甘くセンシュアルだったからである。 すーっと大きく、けれど悟られないようにそれはそれは静かに息を一つ、二つと吸い込んでその甘い香りを堪能した後、そっと目を開けると、そこには彼女のワードローブが几帳面に整然と並んでいた。ジャケットはジャケット、スカートはスカート、ワンピースはワンピース、というふうにきっちりと整頓され、それらが新品の色鉛筆の箱をあけたときのような規則正しさで収まっていた。扉の内側では、ソフィーが日々袖を通す服たちに、彼女の香りが静かに息をひそめて棲みついていた。それが今、こんなふうにこつ然と飛び出してきたのだから私は面食らったのだったけれど、すぐにその香りの中に浮遊して夢見心地になった。時間にしてわずか数秒の出来事である。 un air de rien (アンネール・ド・リヤン〜なんでもないかのように)さながらの軽やかな表情で、ソフィーはそこから薄いジャケットを一つ取り出してそれを肩に羽織った。その動きを追いかけるようにして、また先ほどの香りがひらりとその辺りを舞った。 ああ、これはCocoだ。 この優雅で可愛らしいソフィーとCocoだなんて、それじゃああんまり出来過ぎのような気がしたけれど、でもそれは間違いなくCocoだった。当時、私自身がその香りを毎日のようにつけていたのだから間違えるはずがないのである。 大きな子供が2人いる女性が、新しい恋人と共有する寝室の洋服ダンスの中にこんなふうに香りを閉じ込めていた、ただそれだけのことだけれど、私は「なんだかとんでもないところへ来てしまった」という気がしたものだった。「とんでもないところ」というのは、もちろんパリのことである。 その後、長い長い時間が過ぎ、親しかったソフィーともいつしか音信不通になってしまった。 その長い長い時間の間には、私自身にもいろいろな「変遷」があった。もちろん香りの変遷もあった。 あんなに大好きで愛用していたCocoはいつしか忘れ去られ、替わってここ10年くらいはセルジュ・ルタンス一筋の貞淑ぶりである。ルタンス氏にパレロワイヤルのブティックで最初にインタビューしたのが、やはり確か10年くらい前だったろうか。その後、何度かお会いする機会があり、モロッコのお宅にお邪魔して長時間インタビューをさせていただく光栄にも恵まれた。 彼の何がよいかといって、その「求道者」としてのあり方に勝るものはない。一糸の乱れもなく、完璧にエレガントな装いで立ち現れる彼には、だが、パリという大都会が連想させるタイプの華やかさはみじんもなく、むしろ峻厳な修道僧の気配が立ちこめている。そんな彼が生み出す香りのひとつひとつは、求道者の道程そのもので、そしてそれは「他にまたとない、取り替えのきかない香り」なのである。 ルタンスに行き着いてからというもの、私はすっかり浮気をしない人になった。求道者に対してそんな失礼なことはできない、という思いがあるし、それになんといっても・・・・・・免税店で売っている無数の香水のどれをとっても、「道」の「み」の字も感じられないようになってしまったからである。 「ところでムッシュ、あなたご自身はどんな香りをつけていらっしゃるのですか」 おずおずと、けれど単刀直入に尋ねた私に、ひと呼吸置いてから彼は答えた。 「なにもつけません。石けんで身体を洗って、それで終わりです」 香りの求道者のその答えに、私はいっそううっとりとして、そして「ああ、そうか」という思いを込めて小さな、共犯者的な微笑みで返答した。 そういえば、私自身の名前は「道子」というのだった。そんな名前と共に何十年も生きてきたのだから、求「道」者にうっとりするのは無理からぬことである。 ルタンスの数々の「道程」のなかで、私がことの外、気に入っているのは「ルーヴ」という香り。「雌狼」というその示唆的な名が、私自身の香りの物語を遠い見知らぬ北の国へと紡ぎ出す。 香りの記憶は、ソフィーの洋服ダンスにはじまり、そしてその後出会ったさまざまな人へと数珠つなぎのように連なっている。ソフィーは今もあの彼と一緒に暮らしているだろうか。洋服ダンスを開けると、今はどんな香りが舞い出てくるのだろうか。 パリのアンヴァリッドから雌狼の住む北の国へ。香りの記憶と共に齢を重ね、けれど「道」はなかなか見えてこないし、開けてもこない。そして私自身の洋服ダンスはといえば、優雅なソフィーのものとは似ても似つかず、ごちゃごちゃとカオティックなままなのである。 ▲
by michikonagasaka
| 2013-01-23 02:28
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2013年 01月 11日
![]() 久しぶりにフェイスブックを覗いたら、友人の一人が自らの「カラオケ嫌い」を宣言していた。思わず反応して、「わ〜嬉しい。同志の人に出会うのはこれで2人目です!」とコメントしてしまった。 80年代のニッポンでそのカラオケに火がついて、当時、東京の出版社で働いていた私も、誘われるまま何度かそういう場に出かけたことはある。そして思った。 これの何が楽しいのか? フェイスブックのコメント欄に「2人目」と書いたが、1人目というのは実は(ご存知の方がどれほどいらっしゃるかは不明だが)、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いでご活躍だったデザイナー&クチュリエの渡辺雪三郎さん。私にとっては「雪さん」という名前の大切にして心より敬愛する友人なのだが、その彼と昔、食事をしていたとき、なにかのきっかけで「昨今の風潮」というような話になった。雪さん、まるで「ここだけの話だけど」とでもいうように声をひそめ、「風潮といえばさ、あのカラオケっていうの、僕は苦手だなあ」とおっしゃる。 我が意を得たりで嬉しくて、「私もあれ、大の苦手」と身を乗り出して賛同したのを今でも昨日のことのようにはっきり覚えている。 その後、時はうつり、日本を離れて久しい私は「カラオケでも行くか」と誘われる機会も(幸いにして)消滅し、やれやれと安心しているのだけれど、そうはいっても「実は私、カラオケって嫌い」とはなかなか言い出せないものである(なぜなら世の中にはカラオケ大好きという人がたくさんいることを私は十分承知しているから)。けれど本日、冒頭のフェイスブックの彼に背中を押される形で、堂々とそのことをカミングアウトしようと決めたのだ。 テーマを決めた飲み会というのも、実は同じ理由で苦手だ。 美味しいお酒を飲むのにテーマはいらないし、カラオケという場つなぎ的な余興もいらない。必要なのは、①美味しいお酒 ②向き合う大切な人、 その二つで十分だ。 私はその向き合う人(人々)と、視線を合わせて向き合って、馬鹿話でもいいし、真面目な話でもいいし、ときには愛を語り合うなんていうのでもいいけれど、とにかく全部の気持ちを相手に注ぎたい。笑いもしんみりもうっとりも、100パーセント、パーソナルに共有しなくちゃ、ちっとも楽しくない。 カラオケなんて最初の数分を除けば盛り上がっているのは歌っている本人だけ。周りは誰も真剣に聞いちゃいないし、おざなりの拍手とか、適当なコメントがあったところで、それは歌った当人だって大して真面目に受け止めちゃいない。 そんな希薄な人間関係のどこが楽しいのか、偏屈で古風な私には本当にちっともわからない。 話が飛躍するけれど、そんなわけで友人はたくさんいなくたって構わない。カラオケ友だち100人よりは、しんみり友だち5人のほうがどれだけ豊かで幸せか、と、またまた偏屈に古風に思っている。 幸いなことに、今、私が住んでいる土地には、そうしたしんみり友だちが何人かいて、そんな彼らと過ごすのに、私はなんの小道具も必要としない。これまでに住んだ世界の町々にも、数は多くないけれどそれぞれに、小道具要らずの友だちがいる。そのことを端的にありがたいと思う。生まれてきてよかった、とさえ思う。 さて、カラオケ友だち100人に相通じるものとして、たとえばの話、フェイスブック友だち100人というものがある。カラオケ友だち100人は私の人生には存在しないけれど、フェイスブック友だち◯◯人というのは、一応そこに存在している。そして、あれもどんなもんなのかなあということを、実はこのところ、とみに思うのだ。 親しさの度合いが激しく異なる100人全員に向けて発する言葉や画像というのは、それなりに「無難」なものでなければならない。発せられた言葉や画像に対するコメントにしたところで、やはりそれは「無難」なものにとどまる他はない。ヒマつぶしとして悪くないとは思うし、それをきっかけに大昔の友人や知人と旧交暖めの機会を得ることも、まあ悪くはない。 けれど冒頭の「雪さん」をはじめとして、私自身の本当に親しい友人の半数以上はフェイスブックなんてやってやしないのである。もっとも大切な人の多くが抜け落ちた「お友だちリスト」とは、はて、いかほどのものか。 カラオケ嫌いをカミングアウトしたついでに、フェイスブックも封印しちゃおうか、とふと思ったけれど、まあそこまで教条主義的に白黒つけなくてもいいかな、と、当面、それは思いとどまることに。「無難」とはいえ、そこにはまがいなりにもカラオケ以上のコミュニケーションはあるし、希薄な人間関係の気楽さを時に欲することだってあるかな、とも思うから。 またまた話が飛躍するけれど、私が昔から大好きだったフランス語にlégertéというものがある。「軽さ」という意味だけれど、それは生き方とか、存在の仕方の「軽さ」という意味ももつ。ただ、軽さといっても、それは「軽薄」というニュアンスではなく、どちらかというと「軽やかさ」「とらわれのなさ」といった意味合いで、そういう意味におけるlegertéを、私はその言葉を覚えた時以来、いや、その言葉のいかにもフランス的に肯定的な用いられ方を知って以来、ずっと自分の生き方の柱のひとつとして大切に抱き続けてきた。 ミラン・クンデラの有名な小説、「存在の耐えられない軽さ Insoutenable Légerté de l'Etre」の「軽さ」は、日本語的にはむしろ「うたかた的なはかなさ」に近いものだけれど、いずれにせよ、軽さは、しなやかで自由で都会的な、そして、どこかさらりと潔い諦念にも通じる生のコンセプトには違いない。 ・・・と話がやや哲学的な流れに行ってしまいそうになるところをここでぐっとこらえ、要するに、フェイスブックにいちいち目くじらたてたり、これを本気になってどうのこうのと論じることは、ここでいう「軽さ」に反する心の態度ということがいいたかったのだ、というあたりで止めにしておこう。 ひらひらとうたかたのようにフェイスブックはオッケーとし、けれどカラオケはやっぱりいただけない。そんなあたりが今回の軽やかな結論。 というわけで、私をお誘いいただくときは、シンプルなお食事とかお茶とか、お酒を飲むとか、もうただそれだけで十分なのです! ほかにはホント、なにもいりませんから。 ※オーストリア女、マリー・アントワネット(写真)はフレンチ的な「軽さ」の美学の最高峰的存在。 ▲
by michikonagasaka
| 2013-01-11 05:58
| 身辺雑記
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2013年 01月 02日
![]() 喪中につき、新年のご挨拶は控えさせていただくとして、旧年中、地味な拙ブログを訪れてくださった多数のみなさまにこの場を借りて心より御礼申し上げます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 喪中といえば私には、3月に逝去した父にまつわるある種の悔いというものがある。今年最初のブログ記事に、思い切ってその「悔い」のことを採用してみることにした。 18歳で親元を離れて以来、父と同じ屋根の下で暮らすことは二度とないまま、棺の中のその姿に最後のお別れをしたのが昨年の3月。教会の祭壇脇に横たえられたその棺の、ちょうど父の足下のあたり。葬儀ミサが始まる直前、その目立たない場所に、私は自分が書いた小さな本を一冊だけ、おずおずと置いた。彼に贈呈した最初で最後の「自分の仕事」である。 神楽坂生まれの父は、骨の髄まで東京人で、だから人生の多くの時間を赴任地の名古屋で過ごしたにもかかわらず、言葉も味覚も、そして気質も、決して名古屋に染まることはなく、最後まで東京人のままだった。べらんめえ口調でズケズケとものをいう人だったその父がよく口にしていた十八番の台詞にこんなものがあった。 「娘の結婚式で泣く親父なんざぁ、気色悪くて見てらんねえ」 「ヴァージンロードを娘と腕組んで歩いて涙ぐむぅだとぉ? なにいってやがんだ」 「悪趣味だねぇ」 まだ私自身が結婚の「け」の字も夢想していなかった時代からそれが彼のお得意の悪口のひとつで、そしていざ、パリ郊外で行なわれた娘の結婚式に臨んだ父は、英語で立派なスピーチこそすれ、感極まって涙ぐむなんてことはこれっぽっちもなく、終始にこにこ顔でその日を過ごした。 父や母の「影響下」から一刻もはやく独立して、自分で好きにやっていきたいという願望の強かった娘は、けれど今にして思えば、父のそんな江戸っ子的な「照れ」の気質をいやというほど受け継いでいた。 そしてその「照れ」のせいで、私はついぞ、自分の仕事について父に語ることをしなかった。 どうせ私のやってることなんて「くだらん」と一蹴されるに違いない、という怖れもそこに加わり、だから22歳で東京の出版社に就職し、28歳でパリに移住し、その後、世界を転々とする放浪人生を続ける中、私は父に自分の書いたものを「こんなことやってるのよ」とお披露目するわけにはどうしたっていかなかったのだ。 「あいつは何やってんだぁ?」 ふと、思い出したように遠くに住む娘の生業について、父はそんなふうに母に尋ねることもあったらしい。尋ねられる母とて、なにしろ私からはなにも聞いていないわけだからまともな答えはできるはずもないが、それでも断片的なインフォメーションをつなぎ合わせ、「道子はなんでも雑誌の仕事をしているらしい」「エッセイなんかを書いているらしい」「◯◯とか◯◯にインタビューもしたらしい」などと、適当に答えていたようだ。 米国留学したり、後にはボストンの大学で教えたり、世界各地で開催される学会に参加したりして、西欧人の友人知人も少なくなかった父とはいえ、さすがに大正生まれの日本男児である。それも江戸っ子である。いくらなんでも娘に「ときにお前は何やってんだ? たまにはオレに報告しろよ」なんてことを口にできるはずはない。いや、そもそもそのような興味すらあったのかどうか。 聞かれもしないものを、こちらから「ねえ、お父さん、実はね」などといえるわけもなく、せいぜいが仕事を通じて培った(?)自分の趣味を強引に押し付けるような形で、父の日にちょっと上等のマフラーだのセーターだのを送るくらいが関の山。だから最後の最後まで、私は父と自分の仕事のことを話すことはなかったのである。 逝去の知らせを受け、とるものもとりあえず日本行きの飛行機に飛び乗る直前、そんなわけで私はありったけの勇気を振り絞って仕事部屋の隅っこに数冊積んである自著の中から一冊を選び、それをスーツケースの中に入れた。12時間のフライトの間、どうしようかな、どうしようかな、とうじうじ迷っていた気持ちをそのまま引きずった状態で私は成田エクスプレスに乗り、新幹線に乗り継いで、父の遺体が横たわる実家へと到着した。 こんなことにこれほどの葛藤を覚えるとは一体何事だろうかととあきれかえりつつ、いや、まさにこの葛藤こそが「照れ」との対峙であり、またその克服の作業であることをつくづくと思い知った。そして結局、私はなんとか今回に限って「照れ」を克服したのだった。 「以心伝心」とか「言わぬが花」という美意識にかなりからめとられている私ではあるが、それでも20年余りの欧米暮らしの影響は多大だった。 「言わなきゃ伝わらない」ことというのは、やはりたくさんある。「照れ」の呪縛から少しずつ、ほんの少しずつ解き放たれて、この頃やっと、私は大好きな人たちに「大好きだ」というようなことを(いや、正確にはもう少しぼやかすわけだけれど)なんとか口に出来るようになった。 女友達がいつもよりさらにキレイなときには、「今日、◯◯さん、とってもキレイじゃない」ということもできるようになったし、男友達がチャーミングに感じられたときには「素敵だね」といえるようになった。美味しい料理をつくってくれた人には、「これとっても美味しい」といえるようになったし、本を書いたり、絵を描いたり、音楽を奏でたりする人たちにも、自分が「いい」と思ったときはそれを言葉にして口に出せるようになった(でも「いい」と思わなければ、まさかお世辞で「いい」とは到底言えない性分、相変わらず←これがフェアリーテールを店じまいした多数の理由のひとつでもある)。そして、辛いときに優しくしてもらったり寄り添ってもらったりしたときには、その感謝の気持ちを言葉を尽くして表現できるようにもなった(と思う)。 すごい進歩だと思う反面、この進歩があと10年早く遂げられていたのであれば、父とももっといろいろな話ができたのだろうに、と、そのタイミングのあまりの遅さを今頃になって悔やんでいるのである。 10年以上前に父が書き始め、結局、書き終えないまま絶筆となってしまった原稿がある。執筆中のその原稿を、ある日、帰国中の私に父が手渡した。 「これ、読んでみてくれないかい?」 「え・・・・・・・・?」 「どぉもオレはなぁ、文章がうまくねえんだな。だからお前にみてもらおうかと思ってな」 「照れ屋」の父が、そんなことをいったのはたぶん初めてだ。だから私はなんだかどぎまぎしてしまった。どぎまぎしながら、けれど手渡された原稿を丁寧に読んだ。そして読後、おこがましくも、「ここをこうしたほうがいいんじゃない」というようなことをいくつか言った。 その後間もなく、父には認知症の症状が現れるようになった。ライフワークともいえそうな意欲と熱心さで取り組んでいた原稿だったのに、キーボードに触れることが次第に億劫になり、頭を鋭敏に働かせることが次第に「大きな努力」になり、そして自分の書いた内容を記憶して、先を続けていくようなことが、たぶん、不可能になった。 そのさらに数年後、そういえばあの原稿はどうなったんだろうと気になり、思い切って父に尋ねた。母が不在だったので父と二人、近所の店にトンカツを食べにいったときのことだ。 「ああ、あれか? あれはもう出版されたよ」 「え、そうなの?」 合点がいかなかったが、その話はそれ以上追求しないで打ち止めにしておくことにした。 母に「持たされて」いつも財布に入っていた一万円札で、父は食事の勘定を払ってくれた。 「お父さん、いいよ、私が払うよ」 そういう私に、 「まあそぉ遠慮するなって。これくらい親父に出させろ、遠路からはるばる娘が来てんだから」 といって父は嬉しそうに相好を崩した。 「そお? じゃあ、ごちそうさま」 父にトンカツをご馳走になったことが、私には正月とクリスマスが一緒に来たくらい嬉しいことで、帰り道もなんだか一人でにたにたしてしまう。 あとでこっそり母に確認してみたところ、もちろんその原稿は出版などされていなかった。父の記憶が混濁していただけのことだったのだ。 以心伝心の粋(いき)。率直で気前のいい言葉の威力。その両方があればこそ、人を愛しく思う経験がもっともっと豊かになる。大正や昭和の東京にではなく、平成のスイスに暮らしながら、取り戻せない時間を悔い、そしてその二の轍(てつ)を踏まぬよう、今年も精進し続けねば、と思うのである。 2013年の最初の日が、そんなふうにしてともかくは無事に過ぎた。 ▲
by michikonagasaka
| 2013-01-02 18:07
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